さて、パヴィのアンソロジー ESP に選ばれた文章の紹介を続けましょう。
今日紹介するのは、ニーチェの『愉しい学問』です。このタイトルをご覧になって怪訝に思われた方もいらっしゃるかも知れません。というのも、最初の日本語訳である生田長江訳のタイトルは『悦ばしき知識』となっていて、信太正三訳もこれを踏襲しており、このタイトルで本作品は長らく日本で親しまれてきたからです。その他、『華やぐ知慧』や『喜ばしき知恵』といった訳も登場しましたが、講談社学術文庫版(二〇一七年)の訳者である森一郎氏は、「訳者あとがき」の中で、なぜ Die fröhliche Wissenschaft というドイツ語の原タイトルを『愉しい学問』と訳したか説明していますので、ご興味のある方はそちらをご覧になってください。
アンソロジーに選ばれているのは断章二九〇全文です。ちょっと長いですが、せっかくですから全文読んでみましょう。
一事が必要。――自分の性格に「様式(スタイル)をもたせること」――は、偉大で希少な芸術だ。この芸術を使いこなせる者は、自分の自然本性にそなわる力や弱さが生み出すものをすべて見通したうえで、それを何らかの芸術計画に組み入れ、ついには、そのどれもが芸術や理性として現われ、弱さすら人の目を惹きつける魅力となるようにしてしまう。こちらには、第二の自然が大量に投入されており、あちらでは、第一の自然が部分的に撤去されている――どちらも、積年の修練と日々の労苦が傾けられてきたおかげである。こちらには、撤去されないで残っている醜いものが秘め隠されており、あちらでは、それが改釈され、崇高なものに仕立てられている。曖昧で、形を与えることに逆らう多くのものは、遠景用にとっておかれ、活用されている――無限に遠い彼方へ目配せを送るようにと。作品が完成したあかつきには、大小長短すべてを支配し形成しているのは、同一の趣味による強制だったということが、ついに明らかとなる。その趣味が良いか悪いかは、ひとが思うほど重要ではない――ただ一つの趣味であれば、それで充分なのだ。そういった強制のなかで、つまり自分自身の法則のもとでのそういった束縛と完成のなかで、最高級の喜びを享受できるのは、支配欲に満ちた力強い本性の持ち主であろう。彼らの暴力的意欲の情熱が鎮められるのは、およそ何であれ様式化された自然本性、つまり征服され奉仕する自然を目にしたときである。彼らが宮殿を建て、庭園を造らねばならないときでも、自然を自由にしておくことは彼らの趣味に反する。――逆に、様式の束縛をいやがるのは、自分自身を支配できない弱い性格の持ち主である。彼らはひどくいやな強制を課させると、そのもとで自分がどうしても下賤になってしまうのを感じる。――彼らは、奉仕するやいなや奴隷になってしまうので、奉仕することをいやがるのだ。そのような精神は――第一級の精神かも知れない――自分自身と自分の環境を、自由な――野性的で、勝手気ままで、空想的で、無秩序で、突飛な――自然として、形成したり解釈したりすることを、つねに心がけている。彼らがそうしたがるのは、そうであってこそ自分自身を喜ばせるからだ。というのも、一事が必要だからである。すなわち、人間が自己満足に到達するということが。これは、あれこれの詩や芸術を通してでもよろしい。ともかく人間は、そういうときだけは、見るに耐える代物となる。自分に満足していないときは、その恨みを晴らそうと、絶えず身構えている。われわれ他の者は、その犠牲になるだろう。われわれが醜い光景につねに耐えねばならない、という意味での犠牲だけだとしても。というのも、醜いものの光景に接すると、気分を害したり憂鬱になったりするから。
この文章、ちょっとわかりにくくありませんか。私は三回読んでようやくこういうことなのかなとある理解に達しました。明日の記事でそれを説明します。今日のところは、まずじっくりとお読みになってください。
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