内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

コロナ禍の渦中で書かれた心優しい学生からの公開書簡

2021-02-18 16:21:25 | 講義の余白から

 コロナウイルス感染拡大が少しずつではあるが沈静化の方向に向っており、ワクチン接種も促進されつつある。とはいえ、ここで諸規制を緩和し、日常的な予防対策に緩みが出てしまっては、再度の感染拡大も誘発しなかねない。いまだ緊迫した状況であるから、大学での対面授業再開には慎重にならざるをえない。しかし、弊学科でも三月一日から一年生を主な対象とした対面授業の部分的な再開の具体的検討に入った。
 学生たちも半数以上は対面授業への復帰を望んでおり、教育的効果の面からもその方が望ましいと考える教師がほとんどである。特に自律学習の習慣がまだできていない学生たち(小学生かよと思われた方もいらっしゃるかも知れないが、現実には大学生でも少なくない)には、やはり教室での教師との直接のやり取りと学生同士のコミュニケーションがモチベーションを維持するためには必要なのである。
 こんな状況で勉強を続けるのは、学部最高学年である三年生にとっても決して容易ではない。それに、彼らにとっては今学期が学部最後の学期なのであるから、キャンパスでの対面授業を望む気持ちは彼らにも強くある。ただ、彼ら自身のうちの何人かが証言しているように、今年の学科三年生三〇名ほどはとても仲が良い。お互いに助け合いながらここまできた。それは、対面時の教室の雰囲気・リアクションから私も感じていたことだ。おそらくそのおかげもあるだろう、ここまで脱落者がほとんどいない。
 一昨年度から二月に学生たちにライティング実習として手紙を書かせている。昨年は、ロックダウン前だったので、手書きの手紙を自由な発想で書かせた。それについては、昨年2月17日の記事で話題にした。今年は遠隔授業の中での課題提出なので、添付書類として送るか、MOODLE上に提出するようにさせた。手書きで書いてスキャンして送ってくれてもいいと言ったのだが、皆PCを使って書いて送ってきた。その分味わいには大幅に欠けるのだが、内容はなかなか読ませるものが多く、皆時間をかけて書いたことがわかる。特に、未来の自分宛てという想定で、今の状況を客観視しようと努めている何通かの手紙が印象に残った。
 最初は下書きを送らせ、それに私が若干の訂正・コメント・ヒント・助言を付して返す。それを踏まえて、彼らは清書する。その清書にも間違いがある場合は、また直させる。かなりよくできる学生でも下書きと清書だけで済まない。たいていさらに自分で一二回訂正させる。二グループ担当しているから、計四十数人を相手にこの作業を繰り返す。締め切りが近づくと、私もかなり忙しい。しかし、一回ごとの直しは長くても十五分程度で済むから、それほど負担というわけでもなく、むしろ彼らが自分で文章を推敲していく過程がわかって面白い。
 今日が最終締め切り、現時点で三分の二強の学生が清書の最終版を提出済み。その中から、学科の教師とクラスメート宛ての公開書簡という想定で書かれた一通を全文紹介したい。


日本学科三年担当の先生方と生徒の皆様,

 窮地にもかかわらず、皆様お元気でお過ごしでしょうか。この数年間の感謝の気持ちを込めて、この公開書簡を書いています。入学当初、大学に馴染むのは大変でしたが、LLCERのクラスのおかげもあり、今も元気にやっています。
 急に時間が過ぎて、それぞれが違う道を歩んでいこうとしている今、胸が締め付けられる思いです。一年生の頃のことを今でも覚えている方もいれば、残念ながらすぐにはご縁がなかった方もいます。
 また、この手紙を通して、このような緊密で献身的なグループであることに感謝したいと思いました。残念ながら、多くの場合、教室で生徒同士が邪魔をして、競争原理が支配し、教室の雰囲気がストレスになっています。しかし、私たちのクラスでは、「お互いに助け合う」ということがクラスを最もよく定義する言葉です。
 同じように、私たちに最高の知識資源を提供してくださる先生方、日々、私たちのことを心配してくださっている先生方、そして危機管理に疲れ果てている先生方にも思いを馳せています。私たちの話を聞いてくれる。また、私たちがやる気をなくそうとしていると、私たちの状況を考慮してくれて、ありがとうございました。私たちはそれが先生方にとって容易ではないことを知っていますが、それにもかかわらず、健康危機に直面して、仕事ために本当にありがとうございました。
 また、対面授業に戻るかもしれないという話も聞いていますし、ストラスブールから遠く離れた場所に住んでいるにもかかわらず、週のうち一日でも授業に戻れるようになればいいなと思っています。これにより、対面授業の復活に少しでも希望を持ち続けることができます。
 また、早く再会して、この危機も終息することを願っています。
 皆様、気をつけてください 。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ゴッホはいつどのように日本に紹介されたのか ― 大正生命主義の精神的気圏の指標の一つ

2021-02-17 13:45:15 | 読游摘録

 ちゃんと調べたわけではないが、ファン・ゴッホを日本に初めて紹介したのは白樺派の人たちであり、特に武者小路実篤は熱狂的だったようで、友人の実業家にゴッホの絵を購入することを懇請したりまでしている。文芸雑誌『白樺』(明治四三年 一九一〇年創刊)のバックナンバーを調べれば、いつゴッホが初めて紹介されたかわかるはずだ。『白樺』はロダンやセザンヌも日本に初めて紹介した。これらの紹介が大正期の美術界に与えた影響の大きさは言うまでもないが、同期の文芸・思想にも少なからぬ影響を及ぼしたことが阿部次郎の『三太郎の日記』を読むとよくわかる。
 ゴッホへの言及が見られるのは、『第壱』の「十六 個性、芸術、自然」と『第弐』の「七 意義を明らかにす」においてである。それらの箇所を読むと、ゴッホの最初の紹介から四年足らずの間にゴッホの作品の特徴についてかなり立ち入った考察ができるようになっていることがわかる。しかし、当時ゴッホの作品の実物を観ることはまだできなかったはずである。当時見ることができた図版のカラー印刷の精度が高かったとも思えない。阿部のゴッホについての考察は確かに観念的で、個々の作品の分析にはなりえていない。その考察は、ゴッホの画家としての特異性について論じた文章に基づいているのではないかと推測される。あるいは学生時代から私淑していたケーベル先生から何らかの教示を受けたのでもあろうか。
 どんな調子でゴッホの作品を論じているか、一節だけ引いておこう。『第壱』の「十六 個性、芸術、自然」の第六節からの引用である。

私の見るところではいわゆる表現派の代表者ファン・ゴッホのごときも実によく自然の心をつかみ、物の精を活かした画家であった。ゴッホの強烈なる個性が常に画面の上に渦巻いて、その中心情調をなしていることはいまさらいうまでもないことであるが、個性が猛烈に活きているということは物の虐殺を意味するとはかぎらない。彼の描く着物は暖かに人の身体を愛撫する、手触りの新鮮な毛織りである。彼の火は農婦の手にする鍋の下に暖かに燃えた。木の骨に革の腰掛をつけた椅子も、ガタガタの硝子窓も、彼の絵の中にはすべて活きた。彼の天を焼かんとするサイプレスも、ゴッホの目には確かにあのように恐ろしい心を語ったに違いない。ゴッホは自然を心の横溢と見た。そうして自分も自然と一つになって燃え上がった。しかし私はゴッホの絵の前に、自然か自己かのディレンマを見ることができない。自己表現のエゴイズムが自然と物とを虐待していることを見ることができない。哲学的にいえばゴッホの自然に生命を付与したものはもとよりその特色ある個性である。しかし芸術家ゴッホは自ら生命を付与した自然の前に脆いた。彼の活かさんとしたところは、おそらくは自己でなくて自然であったであろう。むしろ自然を包む霊であったであろう。

 こうしたゴッホ解釈は、画家論として妥当かどうかという問題としてよりも、大正期の文芸・思想の精神的気圏の傾向を伝える指標の一つとして興味深い。ゴッホもまた、鈴木貞美氏が言うところの「大正生命主義」の思潮の中で受容・評価されたと言うことができるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


大正期における阿部次郎『三太郎の日記』の影響力の大きさ

2021-02-16 00:00:00 | 読游摘録

 リュッケン先生の御本は中井正一のモノグラフィーであるから、中井が思春期から青年期にかけて強い影響を受けた著作家として大正期の著作家たちを詳しく取り上げるのは当然のことだが、同時代の他の思想家たちへの影響についての目配りも周到にされていて、同じ文脈で中井の三つ年上である三木清にも言及されている。
 その中で特に大きな扱いを受けているのが阿部次郎の『三太郎の日記』(第壱‐一九一四年、第弍‐一九一五年、合本‐一九一八年)である。同書から合わせて一頁ほど引用されている(三〇頁、四八頁)ことからも、阿部次郎の著作が当時の青年たちに及ぼした影響をリュッケン先生が重視していることがわかる。確かに、三木自身、「読書遍歴」の中で、『三太郎の日記』を耽読した当時とのその後の時代思潮について次のように語っている。

教養の観念は主として漱石門下の人々でケーベル博士の影響を受けた人々によって形成されていった。阿部次郎氏の『三太郎の日記』はその代表的な先駆で、私も寄宿寮の消灯後蠟燭の光で読み耽ったことがある。この流れとは別で、しかし種々の点で接触しながら教養の観念の拡充と積極化に貢献したのは白樺派の人々であったであろう。私もこの派の人々のものを読むようになったが、その影響を受けたというのは大学に入ってから後のことである。かようにして日本におけるニューマニズム或いはむしろ日本的なヒューマニズムが次第に形成されていった。そしてそれは例えばトルストイ的な人道主義もしくは宗教的な浪漫主義からやがて次第に「文化」という観念に中心をおくようになっていったと考えることができるのではないかと思う」と記している。

 三木清が哲学者として独自の形成を昭和期に入ってから遂げていくのは、大正期の教養主義・文化主義・ヒューマニズムを、マルクス主義の独自の解釈、『歴史哲学』の構築、「構想力の論理」の展開を通じて克服していくことによってである。他方、その完成に心血を注いでいた『哲学的人間学』をついに断念して「構想力の論理」にとりかかったこと、最晩年に親鸞に心を寄せていたこと、これらのこともまた三木の思春期から青年期に相当する大正期の知的形成過程から辿り直すことでよりよく理解できるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


大正教養主義はなぜ欧米ではまともに研究されないのか

2021-02-15 00:00:00 | 読游摘録

 今日、日本近代文学研究において、あるいは二十世紀前半を対象とする日本近代思想史研究において、大正教養主義がどれほど日本で研究されているのかよく知らないのだが、フランスにおける日本研究では、ほとんどまともに取り扱われていない。というか、これまでずっとそうであった。事情は英語圏でも同様なようである。
 欧米において大正教養主義が研究対象になりにくいのは、「自分たちのところにすでに或いはもともとあるもの」あるいは「自分たちを模倣したに過ぎないもの」についてわざわざ研究するに及ばないと欧米の研究者たちが考えがちだからである。もっと意地悪かつ端的な言い方をすれば、異国人の猿真似や「似て非なるもの」や折衷主義には軽侮の念しかいだくことができないからである。
 文学に関して言えば、白樺派への言及が表面的かつ図式的な紹介にとどまっていること、宗教思想に関して言えば、禅が欧米人を熱狂させるのに対して、キリスト教に似ているとされる浄土真宗、とりわけ親鸞の思想がこれまであまり研究の対象になってこなかったこと(二十一世紀に入って変化が見え始めたが)、文化史においては、大正期の教養主義や人格主義がまともな研究対象となったことはない。
 この点に関して、リュッケン先生は、一昨日の記事でも取り上げた中井正一研究において数頁を割いて批判的に検討している。批判の理由は、次の三つにまとめることができると思う。一つは、このような態度が欧米中心主義の反映であること。一つは、大正期の知識人たちにおける、さらには当時の日本社会一般における知的・精神的形成に大きな影響力をもった思想的要素を見損なうことになること。そして、もう一つは、一九三〇年代に出版され今日も「日本的なるもの」として欧米でも高い評価を得ている、九鬼周造、和辻哲郎、谷崎潤一郎らの作品と一九一〇年代に広く読まれた作品群との間の連続性と共通性を見落とすことになることである。その連続性・共通性とは、どちらの年代の作品もロマン主義的かつ神秘主義的な傾向をもっていることである。この三つ目の点が私には特に重要に思われる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


書物への愛はいつも片思い

2021-02-14 14:42:43 | 雑感

 昨日の記事では、書物との出会いを人との出会いになぞらえてみました。確かに、時と場所に恵まれないとどちらも成立しないという点において両者は共通していると言えそうです。
 他にどんな共通点があるでしょうか。会ってすぐに相手が理解できることもあるが、そうとはかぎらず、しばらく付き合ってみないと相手の良さがわからないこともあるという点も似ていますね。最初はよくわからなかったことが付き合っているうちにわかってくることもあります。他方、一目惚れだったけれど、時間が経つにつれ相手の欠点が目につくようになることも少なからずあります。挙げ句、もう顔を見るのも嫌だと、あれほど好きだった本と別れ、その後、別の本と出会う、あるいは出会いを求めて彷徨うということもあります。
 人と書物との決定的な違いもまた明らかです。書物への愛はいつも片思いです。書物が私を愛してくれるようになることはありません。相思相愛はありえません。誤解するのもいつも読む側でのことです。もっとも、書き方に問題がある場合もありますけれど。別れもいつも一方的です。ある時はっきりと決別するにせよ、いつのまにか疎遠になるにせよ、それは読むこちら側でのことです。嫌いになれば、売り飛ばしてしまうこともできます(なんと非人道的な!)。
 複数の人を同時に愛することはいろいろと問題を引き起こします。そもそもそれが可能かどうかもわかりません。不倫となればただ事では済みません。書物は何冊でも同時に愛せます。他の魅惑的な書物に目移りしてばかりいる移り気な私を書物が責めることはありません。どんなに浮気をしても、書物は私を決して責めず、書棚の自分の場所でおとなしくしています(なんと健気なことでしょう!)。倫理的・道義的・社会的に責められる心配はありません。離婚訴訟にはもちろんなり得ません(調子こいてんじゃねぇよ!)。
 しかし、人であれ書物であれ、そもそもそうたくさんは深く愛せないのではないでしょうか。あれもこれもと目移りしているようでは、深く愛することはできませんよね。この点、やっぱり人と書物は似ていますね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


書物との出会いにも「時熟して」ということがある ― 三木清とパスカルの『パンセ』とのパリでの出会い

2021-02-13 18:17:39 | 読游摘録

 書物との出会いにも時が熟するということがあるのだろう。たとえ古典中の古典であっても、あるいは名著の誉れの高い作品であっても、それを手に取るのが早すぎても遅すぎても、自分の人生の行路を方向づけるような出会いにはならない。そして、出会いの場所も、どこでもいいというわけにはいかない。出会うべきときに出会うべき場所で出会えること、それは人との出会いだけでなく、書物とのそれであっても、人が一生のうちに必ずしも恵まれるとは限らない幸いなのだ。たとえその人の生涯が悲劇的な結末を迎えることになってしまったとしても。
 パスカルの『パンセ』とのパリでの出会いを語っている箇所は、三木清の「読書遍歴」の中でも最もよく知られ、しばしば引用される箇所である。もうこれで何度目かわからないが、その一節を読み直しながら、上のようなことを考えた。この箇所、リュッケン先生は NAKAI Masakazu. Naissance de la théorie critique au Japon, Les presses du réel, 2015 の中で、その前段落と合わせて全文引用している。『パンセ』との出会いの箇所だけ引いておこう。

 そうしているうちに私はふとパスカルを手にした。パスカルのものは以前レクラム版の独訳で『パンセ』を読んだ記憶が残っているくらいであった。ところが今度はこの書は私を捉えて離さなかった。『パンセ』について考えているうちに、ハイデッゲル教授から習った学問が活きてくるように感じた。そうだ、フランスのモラリストを研究してみようと私は思い立ち、先ずパスカルの全集、モンテーニュの『エセー』、ラ・ブリュイエールの『カラクテール』等々を集め始めた。ヴィネの『十六、七世紀のモラリスト』を読んで、いろいろ刺戟を受けた。私の関心の中心はやはりパスカルであった。そうだ、パスカルについて書いてみようと私は思い立ったのである。マールブルクにおけるキェルケゴール、ニーチェ、ドストイェフスキー、バルト、アウグスティヌス、等々の読書が今は活きてくるように感じた。ストロウスキーの『パスカル』、ブトルーの『パスカル』等々の文献を集めて読み始めた。『パンセ』は私の枕頭の書となった。夜ふけて静かにこの書を読んでいると、いいしれぬ孤独と寂寥の中にあって、ひとりでに涙が流れてくることも屢々あった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


いつでも好きなときに多読できることの不幸 ― 三木清「読書遍歴」より

2021-02-12 18:23:42 | 読游摘録

 多読か精読かという選択には一義的に決定できる答えはないと思う。それは各人の必要・嗜好・目的などによることであり、与えられた環境にもよる。場合によっては、意に反して多読せざるとえないこともあろうし、他律的に精読を迫られるということもあるだろう。
 昨日取り上げた三木清のエッセイ「読書遍歴」には、この点についても考えさせる一節がある。
 三木は、中学三年のときに赴任してきた国語の先生の影響で徳富蘆花を熱心に読むようになる。その先生は副読本として蘆花の『自然と人生』を生徒たちに与える。三木はそれを学校でも読み、家へ帰ってからも読む。先生は字句の解釈などは一切教えないで、ただ幾度も繰返して読むように命じた。その結果、三木は蘆花が好きになる。『自然と人生』のいくつかの文章を暗唱することができるようにまでなる。それから、自分でその他の蘆花の作品を求めて、熱心に読んだ。「冬の夜、炬燵の中で、暗いランプの光で、母にいぶかられながら夜を徹して、『思出の記』に読み耽ったことがあるが、これが小説を読んだ初めである。かようにして私は蘆花から最初の大きな影響を受けることになったのである」と記している。それに続く段落が私には特に示唆的に思えた。

 私が蘆花から影響されたのは、それがその時まで殆ど本らしいものを読んだことのなかった私の初めて接したものであること、そして当時一年ほどの間は殆どただ蘆花だけを繰返して読んでいたという事情に依るところが多い。このような読書の仕方は、嘗て四書五経の素読から学問に入るという一般的な習慣が廃れて以後、今日では稀なことになってしまった。今日の子供の多くは容易に種々の本を見ることができる幸福をもっているのであるが、そのために自然、手当たり次第にものを読んで捨ててゆくという習慣になり易い弊がある。これは不幸なことであると思う。もちろん教科書だけに止まるのは善くない。教科書というものは、どのような教科書でも、何等か功利的に出来ている。教科書だけを勉強してきた人間は、そのことだけからも、功利主義者になってしまう。

 三木は自ら進んで蘆花のみを耽読したわけではない。中学三年のときに高等師範出の国語の先生が赴任して来なければ、蘆花との出会いはなかったかもしれない。たとえあったとしても、このような集中的な読み方にはならなかっただろう。自分一人で思い決めて一人の作家だけを一年間繰返し読むということは中学生にはあまりありそうなことではない。やはりそこに幸運な出遭いがあったからこそ、この耽読経験は生まれた。思春期にそういう時期を持つことは、一人の人間の人格形成にとても幸いなことなのだとこの箇所を読みながら改めてつくづく思った。
 中学時代にはろくすっぽ本を読まなかった老生にはそもそもこのような経験はありえなかったが、高校二年時に太宰治を耽読したことは、その後の物の考え方を方向づける重要な要因の一つにはなっているのではないかと思う。他方、実に「功利的」な話なのであるが、この耽読経験の直後から、国語の成績が突然、本人が驚くほど良くなった(これについては昨年二月十六日の記事で話題にしている)。
 我田引水するつもりはないし、ましてや我が身を三木清に較べるなどという大それたことは欠片も思っていないが、思春期から青年期に、ただ一人の作家を一年間繰返し読むという経験ができたことはきっと幸福なことだったのだと思う。
 三木の時代でさえそれは稀になっていたとすれば、今日のように超便利な時代にはもう不可能になってしまったのだろうか。しかし、これは便不便の問題とは違うように思う。繰り返しになるが、やはり出遭いということなのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


三木清「読書遍歴」から感じ取られる時代の空気

2021-02-11 21:16:09 | 読游摘録

 三木清の「読書遍歴」は、一九四一年六月から九月、十一月から翌年一月にかけて雑誌『文芸』連載された。三木清の知的形成過程だけではなく、その過程を包む当時の時代の空気も感じられて、これまでに何度か繰り返し読んできた。全集第一巻に収録されており、全体で六十四頁とかなり読みがいがあり、情報量も多い。そのときどきのこちらの関心に応じて、気にとまる箇所も違う。
 今回は演習の準備の一環ということがあったので、三木が生きた時代の空気が垣間見られる箇所が特に注意の対象となった。例えば、大正初期にあたる中学時代についての次のような叙述である。

 かようにして中学時代の後半は、私の混沌たる多読時代であった。私は大正三年に中学を卒業したが、私の中学時代は、日本資本主義の上昇期で『成功』というような雑誌が出ていた時である。この時代の中学生に歓迎されていた雑誌に『冒険世界』があった。かような雰囲気の中で、私どもはあらゆる事柄において企業的で、冒険的であった。私の読書もまたそうであったのである。これに較べると、高等学校時代の私は種々の点でかなり著しい対照をなしている。

第一高等学校時代についてはこう記している。

 考えてみると、私の高等学校時代はこの前の世界戦争の時であった、「考えてみると」と私はいう、この場合この表現が正確なのである。というのはつまり、私は感受性の最も鋭い青年期にあのような大事件に会いながら、考えてみないとすぐには思い出せないほど戦争から直接に精神的影響を受けることが少なくてすんだのである。単に私のみでなく多くの青年にとってそうではなかったのかと思う。

 あの第一次世界戦争という大事件に会いながら、私たちは政治に対しても全く無関心であった。或いは無関心であることができた。やがて私どもを支配したのは却ってあの「教養」という思想である。そしてそれは政治というものを軽蔑して文化を重んじるという、反政治的乃至非政治的傾向をもっていた、それは文化主義的な考え方のものであった。

 この箇所を三木が書いたのは、おそらく一九四一年の夏のことであろう。「読書遍歴」の後半連載中に太平洋戦争が勃発する。しかし、一九二四年にパリで書き始め、後に『パスカルにおける人間の研究』として一九二六年に出版される一連の論考を書き継いでいる頃までの想い出で閉じられるこのエッセイにその影は見られない。あるいは、一九四二年一月号に掲載された原稿は前年の十二月には書かれていたであろうから、戦争の勃発とともに連載が急に中断されたのでもあろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


国民の自由とは無関係な「学問の自由」― 今、三木清を読むことの意味

2021-02-10 11:55:39 | 読游摘録

 三木清の人と思想を当時の時代状況中に位置づけながら思春期から死まで辿ることは、大正期から敗戦までの日本近代思想史の諸側面を自ずと照らし出すことになる。本意ではなかったにしても、三木が三十代前半でアカデミズムの外に出て、学術的な著作以外に多数の時事評論的文章を残したこと、政治的関与によって官憲に検挙されるなど、時代の困難に身を以て関わったことからわかるように、三木清の人と思想は、主要著作の内容を遥かに超えた広がりと奥行をもっている。
 三木の死の三年後の一九四八年に出版された三木清追悼文集『回想の三木清』(三一書房)に最初寄せられ、今では『久野収セレクション』(岩波現代文庫 二〇一〇年)に収録されている「三木清 ―― 足跡」の中で久野はこう書いている。

 三木さんがアカデミーの中に終始立てこもって、時々民間のジャーナリズムに顔を見せるという、わが国の知識人に普通な生き方をもし選んでいたとしたならば、よほどの不運に見舞われないかぎり、あのような運命を、恐らく招くことはなかったであろう。外国とわが国とでは、この間の事情が全く反対なのであって、実はここに深刻な一つの問題がひそんでいるのである。外国ではアカデミーよりも民間に生きる方が、ずっと自由でノビノビとした生き方を意味するのであるが、わが国ではアカデミーにとどまる方が、はるかに自由であり、知識人として民間に生きることは、かえってあらゆる点の不自由を意味し、或る場合には甚だしい危険すらをも含まねばならない。これは日本におけるアカデミーの自由が、国民一般の人間的自由の特殊化として成立しているのではなく、それ故に国民一般の人間的自由によってあたたかく支えられているのではなく、国民の自由とは無関係な、或いはそれに抑圧的な一個の特権的官僚的自由であることを意味している。学者たることの自由が人間たることの自由の上に基礎づけられていないという点にこそ、日本の学問の致命的無力の理由が存在し、日本の国民の深刻な不幸の一つの有力な原因が存在する。軍閥と官僚による学問の自由の蹂躙が、あれほど見事に成功したのは、国民の一人一人が、その蹂躙を自己の人間的自由の部分的蹂躙として、実感し得なかったという事実にもとづくであろう。学者の側も、自由を特権的自由として享受することで満足し、それを国民の一般的自由の問題と結びつけて、たえず開拓し、確保する用意と努力にかけていたことは、とうてい否定することが出来ない。(二四四-二四五頁)

  この文章が書かれた敗戦直後の状況、そしてその中で言及されている戦中の日本の状況と今のそれとはもちろん同じではない。しかし、国民一般の人間的自由と学問の自由との関係についてのこの文章を読んで、現代の私たちは、これはもう過去の問題だと言うことができるだろうか。今、三木清の人と思想を辿り直すことは、単なる大正昭和思想史研究の枠に収まる問題ではないと私は思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


マッカーサーと天皇との会見は三木清の獄死の翌日だった ― ボタンの掛け違いから始まった戦後

2021-02-09 19:23:41 | 読游摘録

 奥平康弘の『治安維持法』(岩波現代文庫 2006年 初版1977年)のエピローグ「治安維持法の廃止」には、三木清の獄死前後のマッカーサー司令部の日本当局に対する動きについて二頁ほどの記述がある。昨日の記事で引用した日高六郎の『戦後思想を考える』の三木の獄死をめぐる記述を当時の資料からの引用も含めて補うことになるので、講義ノート代わりにここにその記述を書き写しておく。

 政治犯の釈放については、日本当局のサボタージュを防ぐためか、「目下拘束又は収監中の若(しく)は『保護又は観察』下にある一切の者」を釈放するよう指示しているが、それでも足らないとみてか「拘束、収監、保護又は観察中ではないが自由の制限せられて居る者も亦同じ」と念を押している。マ司令部は、これら該当者の釈放を一〇月一〇日までに「完全に実施しなければならない」と命じた。
 この覚書に先立ち、アメリカ政府は九月二二日づけで「降伏後における米国の初期の対日方針」を出していた。それは、ただちに日本の新聞にも報ぜられたところである。そこには「人種、国籍、信仰又ハ政治的見解ヲ理由ニ差別待遇ヲ規定スル法律、命令及規則ハ廃止セラルベシ又本文書ニ述ベラレタル諸目的及諸政策ト矛盾スルモノハ廃止、停止又ハ必要ニ応ジ修正セラルベシ此等諸法規ノ実施ヲ特ニ其ノ任務トスル諸機関ハ廃止又ハ適宜改組セラルベシ政治的理由ニ因リ日本国当局ニ依リ不法ニ監禁セラレ居ル者ハ釈放セラルベシ……」とあった。米国がこのような方針をもっていることを知りながら、日本政府は無為にすごしていた。そればかりではない。九月二六日、高名な哲学者三木清が疥癬および栄養失調症のため拘置所で死亡するという事件のごときが発生し、占領軍を驚かせた。三木は、この年三月はじめ検挙取調べ中のところを逃走した高倉輝の逃走行為を援助した容疑で、三月末に検挙され、警察の留置場をへて六月なかば拘置所へ移されていたのである。敗戦と同時に釈放され適切な治療をうければ、死亡をのがれえたであろうことは明らかであった。この事故は、占領軍が前記覚書を出すひとつのきっかけであったといわれる。
 三木の死亡直後、九月二九日の各新聞には、ノーネクタイ・開襟シャツを着用し腰に手をあてリラックス姿のマッカーサーと、モーニングに身をかためコチコチに緊張した姿の天皇の写真が掲載された。勝者と敗者とのコントラストを歴然と反映したこの写真は、従来の天皇のイメージと決定的に異なるものを表現していた。その意味で天皇の「尊厳」をいちじるしくきずつけた。内務大臣山崎巌は、ただちに新聞紙法にもとづき掲載新聞に販売頒布禁止処分をおこなった。このときの新聞面にたまたま、天皇が名指しで特定の者(東条英機)を非難している発言がのせられており、天皇がこういう発言をするわけがない、というのが発禁処分のおもてむきの理由にされた。しかし、件の写真掲載が本当の理由であるのは、うたがいない。どちらにしても、この措置により占領軍は、あらためて日本の警察が出版物についての検閲権を保持しつづけている事実に、びっくりした。占領軍はただちに発禁処分を撤回させるとともに、マッカーサーと天皇の会見がおこなわれた九月二七日にまでさかのぼって、その日づけで、新聞紙法などの廃止をもとめると同時に、発売頒布禁止処分などの権限行使の停止を指示したのであった。(二八五-二八六頁)

 マッカーサーと天皇との会見が三木清の獄死の翌日だったということは何かとても象徴的なことのような気がする。戦後日本は大事なところでボタンの掛け違いから始まっており、それが掛け直されることなく今日まで来てしまったのではないだろうか。