三木清の「読書遍歴」は、一九四一年六月から九月、十一月から翌年一月にかけて雑誌『文芸』連載された。三木清の知的形成過程だけではなく、その過程を包む当時の時代の空気も感じられて、これまでに何度か繰り返し読んできた。全集第一巻に収録されており、全体で六十四頁とかなり読みがいがあり、情報量も多い。そのときどきのこちらの関心に応じて、気にとまる箇所も違う。
今回は演習の準備の一環ということがあったので、三木が生きた時代の空気が垣間見られる箇所が特に注意の対象となった。例えば、大正初期にあたる中学時代についての次のような叙述である。
かようにして中学時代の後半は、私の混沌たる多読時代であった。私は大正三年に中学を卒業したが、私の中学時代は、日本資本主義の上昇期で『成功』というような雑誌が出ていた時である。この時代の中学生に歓迎されていた雑誌に『冒険世界』があった。かような雰囲気の中で、私どもはあらゆる事柄において企業的で、冒険的であった。私の読書もまたそうであったのである。これに較べると、高等学校時代の私は種々の点でかなり著しい対照をなしている。
第一高等学校時代についてはこう記している。
考えてみると、私の高等学校時代はこの前の世界戦争の時であった、「考えてみると」と私はいう、この場合この表現が正確なのである。というのはつまり、私は感受性の最も鋭い青年期にあのような大事件に会いながら、考えてみないとすぐには思い出せないほど戦争から直接に精神的影響を受けることが少なくてすんだのである。単に私のみでなく多くの青年にとってそうではなかったのかと思う。
あの第一次世界戦争という大事件に会いながら、私たちは政治に対しても全く無関心であった。或いは無関心であることができた。やがて私どもを支配したのは却ってあの「教養」という思想である。そしてそれは政治というものを軽蔑して文化を重んじるという、反政治的乃至非政治的傾向をもっていた、それは文化主義的な考え方のものであった。
この箇所を三木が書いたのは、おそらく一九四一年の夏のことであろう。「読書遍歴」の後半連載中に太平洋戦争が勃発する。しかし、一九二四年にパリで書き始め、後に『パスカルにおける人間の研究』として一九二六年に出版される一連の論考を書き継いでいる頃までの想い出で閉じられるこのエッセイにその影は見られない。あるいは、一九四二年一月号に掲載された原稿は前年の十二月には書かれていたであろうから、戦争の勃発とともに連載が急に中断されたのでもあろうか。
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