内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

気づかぬうちに人の心を蝕むメタフィジカルなウイルスのほうが私は恐ろしい

2020-08-21 11:26:52 | 雑感

 八月もあと十日を残すばかりとなり、いやでも全力で新学期の準備に取り組まざるを得ない時期に入っています。ところが、昨年までとは大きく異なる未曾有の状況の中に置かれて、どうにも気が入らないというか、地に足が着いていないというか、今までに経験したことのない精神状態に置かれています。そこで、一種の自己療法として、自分でその状態をいくらかでも対象化するためにこの記事を書き始めています。
 まず、喩えを使って自分の現在の精神状態を説明してみます。
 さあ自家用車に乗って仕事に出かけようと、車を始動し、路上に出たのですが、何かすべてがぎこちない。別に体調が悪いわけではないのに、自分の体にいつものように力が入らず、操作が滑らかでなく、反応も遅れがちだ。車も、別に故障というわけではないのに、いつものように加速せず、ブレーキの効きも甘くなっているような気がする。そして、もっと困惑させられるのが、路面状況や道路事情が以前と変わっているだけでなく、交通規則も変更になっていて、それがまたいつ変更になるかわからないという状態で車を走らせなければならないことだ。車の流れも以前のように滑らかでなく、他の車の動き方も予測しにくい。だから、ちょっと走らせただけで、すごく疲れる。
 なんかこんな感じなんですね。自分の体調が気になるなら、自宅で静養するか、病院に行けばいい。車の調子がおかしいなら、点検・修理に出せばいい。でも、路面状況、道路状況、交通規則のことは自分ではどうにもなりません。それらが過去に例のない仕方で変わってしまい、しかもまたいつ変わるかもわからない。こんな不安定・不確定で予測困難な状況に置かれ、それがいつまで続くのかもわからない。状況が安定するまで引きこもっているわけにもいかない。社会全体がおかしなことになっているから、どこにも逃げ場がないじゃないか。そういう追い詰められた感情に支配されがちです。
 先が見えないままこういう状態が長引くと、ほんとうにメンタルをやられてしまいそうです。いや、すでに気づかないうちに心が蝕まれているのかも知れません。コロナウイルス感染そのもののリスクよりも、それが発生させた人の心をじわじわと蝕むメタフィジカルなウイルスのほうが私は恐ろしい。
 どうすればよいか。一瞬にしてすべての問題を解決する魔法はない以上、あまり先のことは考えず、目の前の仕事を一つ一つ、あまり無理せずに片付けていく以外、私にはさしあたりの対処法も思いつきません。
 今日の午後は、いつものカットサロンに行って、髪をさっぱり短くしてもらいます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


独断と偏見による私のテレビドラマ・ベストテン

2020-08-20 01:54:03 | 雑感

 今日から24時間仕事全開モード(睡眠中も締め切りが迫った仕事がらみの悪夢にうなされるということ。これはすでに始まっている!)に入るので、その「前夜祭」(というか、今年もやってきた地獄門くぐり直前の景気づけ)として、昨日は、プールにも行かず、日課の読書も数ページパラパラ、ブログの記事もチャッチャと片付けて、自分でも「ほんまにアホやなぁ~」と思いつつ、日本のテレビドラマを観ほおけておりました。
 そのように脳が液状化しているような虚ろな心理状態で、ここ十年ほどに観たドラマをぼんやりと思い出しつつ、それらの中からマイ・ベストテンを選んでみました(ヒマやなぁ~、アンタ)。
 といっても、対象作品は、フランスで視聴できた作品に限られますし、VPNを日々使用している現在でもNETFLIX、AMAZON PRIME VIDEO、GYAOで配信されているドラマに限られます。それに、NHKのドラマも(朝のテレビ小説も大河ドラマも)残念ながら高画質で合法的に視聴できないので、DVDを所有している作品以外は、選考対象外になります。単発ドラマもアニメも対象外。しかも、私個人の嗜好のみに基づくジャンルの選択は、ものすごく偏っています。さらに、日本で現在放映中の作品、すでに放映終了していても、私が現在まだ全回視聴し終えていない作品も、公平を期すために選考からはずしました。
 と言っておきながらですが、現在視聴中の作品の中のベストスリーはすでに確定していて、三位『凪のお暇』(昨年評判になったドラマですが、最近アマゾンプライムで視聴可能になりました)。二位『私の家政夫ナギサさん』(現在放映中ですが、放映翌日からGYAOで6日間無料配信中です)。 一位『捨ててよ、安達さん』(テレビでの放映は終わっていますが、GYAOで第6話まで配信済です)。あと、昨日全編観終わったばかりですが、『忘却のサチコ』(2018)は期待以上に面白かったです。
 以下のランキングは、自分はいったいどんなタイプのドラマを好むのかという自問に答えるだけの、私の私による私のための現在における仮のランキングです。ですから、ランキングにはあまり意味がないのですが、これまでに全回観た回数を第一基準にしました。つまり、過去に観たくなった度数で順位付けしました。

10位『白い春』(2007)
9位『医龍』(2006、2007、2010、2014)
8位『新参者』(2010)
7位『時効警察』(2006)『帰ってきた時効警察』(2007)
6位『僕らは奇跡でできている』(2018)
5位『重版出来』(2016)
4位『のだめカンタービレ』(2006)
3位『義母と娘のブルース』(2018)
2位『結婚できない男』(2006)
1位『ツバキ文具店~鎌倉代書屋物語』(2017)

 特別賞として、『深夜食堂』を選びました。これは現在50話あるので、それら全体に対する評価です。一話単位の視聴回数の総計では『深夜食堂』がダントツです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


私たちは「故郷」からどれだけ遠く離れて生きているのか ― 植物がその形によって無邪気に語る言葉を「聴く眼」をもった哲学者ショーペンハウアー

2020-08-19 15:33:42 | 哲学

 ショーペンハウアーは、『意志と表象としての世界』第一巻第二十八節で、植物と動物と人間との間の差異について、次のように述べている。

外形だけで自分の性格を全部表わし、明らさまに示す植物の素朴さについてここで注意を促しておきたい。植物は単なる外形だけで、自分の存在と意欲の全部を表明しているわけだから、植物の外貌はあんなにも面白いかたちをとっているのである。動物はこれに対し、動物のイデアのうえから認識されるためには、すでにその行動と動作において観察されることが必要であって、さらに人間に至っては、理性をもっているので、擬装の能力を高度にそなえ、人間は徹底的に調査されたり、試験されたりすることが要求されている。(西尾幹二訳 中公クラシックス 2012年。以下同様)

この生きんとする意志が完全に剥き出しのままに、が、はるかに微弱なかたちで現われるのは植物においてであって、植物における生きんとする意志は目的も目標ももたない生存への純然たる盲目の衝動にほかならない。なぜなら植物は一目見ただけでもまったく無邪気に、その本質全体を表わしているからである。

植物のこの無邪気さは植物には認識がないということにもとづいている。すなわち邪気は意欲にあるのではなく、認識を伴った意欲にあるからである。

ところでいかなる植物でもまず語っているのは、その故郷であり、故郷の気候であり、それが発芽した土壌の性質である。[…]しかしそのうえさらにどの植物も、それぞれの種族の特殊な意志を表明していて、他のいかなる言葉でも語ることのできないなにかを語っている。

 ショーペンハウアーの眼は、植物たちがそのそれぞれの形によって無邪気に自分たちのことを語る言葉を「聴き取る」ことができたのだろう。
 私たちが植物を見て、なにか言い知れぬ郷愁を感じることがあるとすれば、それは、私たちが「故郷」からどれだけ遠く離れて生きているのかということを、植物たちが自分たちの故郷を無邪気に「語る」ことで、私たちに無言のうちに示しているからなのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


内的諸傾向の総合的表現としての形態 ― 現代の自然哲学の中に位置づけ直されるべき形態学

2020-08-18 23:59:59 | 哲学

 植物をその固有性において考察し、その生態を適切に記述するためには、どのような科学的言語が必要なのだろうか。私たち人間がよりよく知っている動物の生態を記述するための言語を応用するところから始めなければならないのだろうか。しかし、動物的生についての知見から植物的生への類推がいくらかは可能であるとしても、両者の間に相同性を見出すことは困難であり、このようなアプローチでは植物の固有性をそれとして記述することは到底できない。
 では、植物の生を物理的・化学的・生物学的現象に還元し、それを分析するというアプローチはどうであろうか。このようなアプローチは、生命現象を同一の言語でより斉一的に記述することを可能にするとしても、植物の圧倒的に多様な諸形態を記述するには不向きである。
 すでに何度か引用した『植物礼讃』の中でフランシス・アレは次のように形態認識の重要性についての自らの確信を語っている。

Existe-t-il, concernant la plante, un résultat quantitatif de quelque importance qui ne se trouve transcrit dans sa forme ? Je ne le pense pas ; rien dans les textes scientifiques, anciens ou récents, ne vient, à ma connaissance, démontrer le contraire. La forme est un intégrateur des tendances internes, dont elle nous offre d’emblée une puissante synthèse. Aussi, la science des formes n’est-elle pas désuète ; je pense plutôt qu’elle pourrait avoir sa place dans une « philosophie de la Nature des temps modernes ».

Francis Hallé, Éloge de la plante. Pour une nouvelle biologie, op. cit., p. 40-41.

 物理化学的分析によって得られた何らかの重要性をもった定量的結果のうち、それが植物の形態において表現されていないものがあるだろうか? アレはないと言う。彼の知る限り、古今の学術的研究の中でその反対を証明したものはない。形態は内的諸傾向の統合しているのであり、形態はその諸傾向の強力な総合を直ちに私たちに示してくれる。だから、形態学は廃れてはない。むしろ、形態学は、「現代においける自然哲学」の中にその然るべき場所を占めることができるものだ。そうアレは考える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


人間の知性とは異なった〈知性〉を植物に認める生命世界像はいかにして可能か

2020-08-17 16:29:02 | 哲学

 植物に意識・記憶・痛苦・感情・知性を認める植物学者たちがいる一方、そのような立場に否定的な植物学者たちもいる。この対立は、同じ概念的な枠組みの中で、どちらか一方が正しくて、他方は間違っているという形で決着がつけられる話ではなさそうである。同じ学問的分野での相容れない仮説の対立というよりも、植物の生態を記述する概念の枠組みそのものの選択とその選択を支える生命世界像の対立と見るべきだと思われる。
 例えば、植物の知性の有無については、イタリアの植物生理学者ステファノ・マンクーゾとサイエンスライターのアレッサンドラ・ヴィオラの共著『植物は〈知性〉をもっている』(NHK出版 2015年。原書イタリア語版は2013年刊行。仏訳も2015年。文庫化は2018年)が前者の立場を代表する書物の一つであり、それを否定する立場を表明しているのが植物生態学者のジャック・タッサンの À quoi pensent les plantes ? Odile Jacob, 2016(『植物たちは何を考えているのか』未邦訳)である。後者の次の一節を読むと、どのような意味で植物の知性が否定されているのかわかる。

L’intelligence est la capacité à ajuster son comportement au cours de la vie. Elle suppose une aptitude à choisir, liée à une faculté d’apprentissage que n’autorise qu’une mémoire véritablement intégrative qui, sachant se souvenir, sait affronter une situation nouvelle. Or rien n’en révèle la présence chez la plante, où l’on ne distingue au mieux que des traces plus ou moins persistantes. Non, la plante n’est assurément pas intelligente.

 知性とは、可変的な生命世界の諸条件に生体の行動を適応させる能力であり、その能力は、選択能力を前提とし、その選択能力は、過去の出来事を統合化し、新しい状況に立ち向かうことができる記憶力によってのみ可能になる学習能力と結びついている。ところが、植物には、環境の変化後、一定期間ある残存する化学物質あるいは変化の何らかの痕跡以上のものは見いだされえない。したがって、植物に知性はない。
 言い換えれば、記憶が脳の存在を前提とするかぎり、脳を持たない植物に知性はない。知性とは、経験した出来事を記憶・統合化し、後になって、状況に変化が生じたとき、その変化に対処するためにその記憶を適用することができる脳の機能のことだとすれば、植物にはそのような過去の記憶が不可能である以上、知性の存在は認められないという帰結になるのは避けがたい。
 しかし、これは人間の知性をモデルとした「人間中心主義的」論証であるから、それとして内的整合性をもっているとしても、それだけで植物知性論を完全に反駁したことにはならない。植物固有の環境への適応力を基礎モデルとして生物の環境適応のためのストラテジーを総合的に捉えるパースペクティヴにおいては、人間の知性とは異なったストラテジーを選択する植物の知性を認める生命世界像も可能になってくるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


私たちの言語は、植物の生態を語るのには必ずしも適切ではないが、それでも植物を讃えることはできる

2020-08-16 21:31:37 | 哲学

 ビュルガの本には、多数の著者たちからの引用がいたるところに散りばめられている。それぞれの文脈での著者の引用の意図とは関わりなく、それらの著者の中でひときわ印象深いのが、8月9日の記事の中ですでにその名を挙げた植物学者 Francis Hallé である。その文章は、平明ありながら、生彩に富み、ユーモアにも欠けていない。植物学者としての記述・説明においてはあくまで正確であろうとし、学問的蓄積に裏打ちされた哲学的省察の中には、控えめな表現ながら生命論として深い洞察が示されている。
例として、エピローグの中の « Dispersion et concentration » と題された節全文を挙げたい。ちょっと長いが、初級を終えた学習者なら辞書もさほど引かずに読める平易なフランス語で書かれている。

 De toute évidence, les animaux ont atteint un niveau extrême dans la sophistication des structures, des mécanismes, des fonctions et des comportements mais, ne nous y trompons pas, c’est au prix d’une constante dispersion d’énergie par prédation sur les plantes. Il n’est pas difficile de mener une vie brillante lorsqu’on gaspille les ressources des autres et, comme on sait, la dolce vita n’est pas le lot des travailleurs.
 Car les plantes, pendant ce temps, édifient 99 % de la biomasse des multicellulaires, avec une très grande sobriété de moyens – trois types d’organes seulement, de l’eau et des excréments comme squelette –, et cette édification s’effectue par concentration d’énergie.
 Elles ne sont pourtant pas des structures rudimentaires ; elles atteignent, elles aussi, un niveau élevé de sophistication dans leurs systèmes de captation des signaux externes ou de corrélation entre organes. C’est vrai qu’elles sont silencieuses ; elles communiquent autrement.
 Les plus grands êtres vivants, et ceux qui vivent le plus longtemps, sont des plantes ; ces dernières sont aussi à l’origine de la plupart des chaînes alimentaires, elles structurent nos paysages, abritent les animaux, participent à la formation des sols et au contrôle local des climats, rafraîchissent l’air et sont capables, dans une certaine mesure, de le nettoyer de ses polluants. Grâce à la photosynthèse, la plante fournit à l’animal son énergie, sa nourriture et l’air qu’il respire.
 Son succès biologique n’apparaît nulle part mieux que dans le domaine alimentaire : la plante ne dépend pas de l’animal, alors que ce dernier dépend d’elle pour sa survie quotidienne. L’homme, lui aussi, dépend totalement des plantes pour son alimentation : qu’il soit végétarien ou non, peu importe ; sans les plantes, je crois qu’il devrait se nourrir d’eau et de sel ! L’homme, un sommet évolutif autoproclamé…
 Toutefois, dans sa relation à l’animal, elle ne se contente pas de jouer le rôle passif d’une ressource nutritive sans défense. Lorsqu’elle en a besoin, elle sait lui emprunter sa mobilité, son rythme temporel accéléré, ses formes globuleuses, ses odeurs discutables ; en manipulatrice avertie, elle sait utiliser les points faibles de son partenaire, l’amener à collaborer et atteindre ainsi ses fins.
 À ma connaissance, cette description des faits ne contient pas de contre-vérité ; et pourtant, elle n’est pas réaliste, car notre langage même n’est pas adapté à la plante, elle ne sait pas, elle n’utilise rien, elle n’a ni besoins, ni projets, ni buts. Nous parlons un langage d’animaux qui se prête mal à la relation d’une vérité végétale ; mais les anthropomorphismes sont préférables à d’ennuyeuses périphrases, aussi n’avons-nous guère le choix. Le langage des plantes, si elles en avaient un, serait peut-être un peu lent…
 Au moins notre langage peut-il nous permettre de faire l’éloge de leurs qualités esthétiques : les plantes sont belles, et elles sentent bon, mortes ou vivantes. Nous leur devons une part de notre équilibre mental, comme on peut en juger par leur nécessaire présence dans les villes. Une très grande partie de la beauté du monde leur est due. À mon avis, c’est plus que de la simple beauté (Éloge de la plante, Seuil, « Points Sciences », 2014, p. 324-325).

 人間と動物の生態の記述に都合よく誂えられた私たちの言語は、植物を語るために適切な語彙に恵まれていない。仕方なしに、動物を記述するための語彙を植物の生態の記述に応用しているが、それは植物の生態の記述にはほんとうはふさわしくない。もし植物が自分たちの言葉をもっていたら、それはゆっくりとした語り方だろう。
 それでも、私たちの言語は植物を讃えることはできる。その見事な達成がフランシス・アレの『植物礼讃』に他ならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


樹々たちが許してくれるのならば

2020-08-15 19:08:31 | 雑感

 今日の記事は、昨日までの哲学的植物論に比して、ガク~ンとユルい内容です。双六でいえば、一回お休みって感じです。敗戦後七十五年の今日という日に不謹慎極まりないことなのですが、グタグタ、ウジウジした話をお許しください(でも、短いです)。
 ビュルガの『植物とは何か』を、少し、いやかなり、真面目に読み、そこに引用されている主要文献を収集し(せっかくの夏休みに何やってんだろう、私。結構な出費になっちゃったし、ふ~ぅ)、それはそれでとても興味深くて、また新しい思索のテーマが見つかったなぁって喜んではいたのですが、ちょっとうんざりしてきてもいます。
 なぜかというと、ビュルガの哲学的な議論の素振りの影に、きな臭いというか、政治的なポジションがチラチラ見えてきて、白けてきているからです。哲学と政治を分けろと言いたいのではありません。掃いて捨てきれないほどある非政治的かつ人畜無害なテツガク的議論よりはずっとましです。
 でも、私の度し難い偏見もあるのですが(それくらいは自覚しているつもりです)、正直に言って、自分の立場に固執するナントカ主義者たちが私は大嫌いなのです。そういう連中の主張に哲学的な議論の化粧がほどこされているとき、それは哲学に対する冒涜であると、憎しみさえ感じます。
 しかし、憎しみを増幅させることは、己の身を蝕むだけなので、老い先短いこの身、もうグタグタ、ウジウジは止めます。
 明日からは、また、何事もなかったかのごとく、タンタンと、この人はこんなことを言っていますよ、興味深いですね、そこから何か学びたいですね、という調子で駄文を綴っていくことにします。
 と書いて、窓前の樹々たちを見上げると、「いいんじゃないの、それで」と言ってくれているような気がしました。ありがとう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


私たち人間の生命は他の生き物たちの転生の機会なのだろうか

2020-08-14 23:59:59 | 哲学

 エマヌエーレ・コッチャの『植物の生の哲学 混合の形而上学』は、ネット上でちょっと検索しただけの印象だが、日本でもいくらか注目されているようである。著者は1976年生まれのイタリア人で、現在パリのフランス国立社会科学高等学院の准教授。前著 La vie sensible(Bibliothèque Rivage, 2010 ; Rivage Poche, 2018)はイタリア語からの翻訳だが、本書も今年上梓された最新著 Métamorphoses(Bibliothèque Rivage)も本人よってフランス語で直接書かれたようである。そのせいかどうか、語順や不定法の名詞的用法の多用にちょっと違和感を覚えるところがあるが、全体として大変わかりやすいフランス語で書かれている。コッチャの思想についての私なりの感想は、上掲三書をすべて読み終えてからにしたいので、今日の記事では、ビュルガが引用している箇所についてのみ、感想を述べるにとどめる。

Il estime que l’être humain ne peut vivre sans « arracher [la] chair » d’autres êtres vivants et que, « pour le dire négativement : notre vie est toujours un sacrifice d’autres êtres vivants, animaux ou végétaux », mais que « pour le dire positivement : notre vie est la chance de réincarnation donnée à des poulets et à des salades » … (F. Burgat, Qu'est-ce qu'une plante ? op. cit., p. 14)

 この引用は、『植物の生の哲学』からではなく、2019年3月29日付ル・モンド紙の記事 « Condition animale : les antispécistes vont-ils trop loin ? » (par Catherine Vincent) の中に引用されていたコッチャの発言の孫引きである(この点、昨日の記事の末尾の説明が誤っていたので、訂正しておいた)。しかもコッチャの発言の一部しか引用しておらず、発言の意図が伝わりにくくなっている。上掲の引用部分を含むは発言は以下の通り。

« Nous ne sommes pas des plantes, nous ne sommes donc pas capables de vivre sans toucher à d’autres êtres vivants, sans leur arracher leur chair, leur vie et leur énergie, rappelle-t-il. Pour le dire de façon négative : notre vie est toujours un sacrifice d’autres êtres vivants, animaux ou végétaux. Pour le dire de façon positive : notre vie est la chance de réincarnation donnée à des poulets et à des salades. »

私たちは植物ではない。私たちは、だから、他の生き物たちに手を付けることなしに、彼らの肉を剥ぎ、彼らの命を奪い、彼らのエネルギーを奪い取ることなしに生きることはできない。このことを否定的に言えば、人間の生命は、動物であれ植物であれ、他の生き物たちの犠牲の上に成り立っている。それを肯定的に言い直せば、私たち人間の生命は鶏や葉菜類の転生の機会なのだ。

 この発言には続きがある。ル・モンド紙の記者の文章の中に組み込まれているので、それも含めて引く。

Plutôt que d’essayer de se blanchir la conscience en ne mangeant pas les êtres qui souffrent, il serait préférable de « resacraliser l’acte de l’alimentation, d’en faire une sorte de rituel qui nous oblige à nous souvenir, chaque fois qu’on mange, qu’on prend la vie d’une autre espèce ». Pour l’auteur de La Vie des plantes (Rivages, 2016), l’antispécisme, en se préoccupant des intérêts des bêtes, a « étendu le narcissisme humain au royaume animal ».

 苦しみを味わう生き物たちを食することを止めて良心の潔白を証明しようとするよりも、食することを、再度神聖化すること、食事をするたびに他の種の命をいただいていることを私たちが思い起こさねばならないようにする一種の儀式にするほうが望ましいとコッチャは言う。
 生き物の命を奪う殺生を五大罪の一つとする仏教からすれば、今頃何言ってんの、という話であるが、西洋では、種間にヒエラルキーを認める spécisme は大変に根強く、antispécisme という言葉が登場するのは一九九〇年代のことに過ぎない。コッチャが批判しているのは、このアンチ・スペシズムが人間の自己愛を動物の王国にまで拡大したに過ぎないことである。肉食を全否定したところで、人間の生命が他の生命の犠牲の上にしか成り立たないという事実に変わりはない、と言いたいのであろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「ベジタリアンよ、人参の苦痛の叫びを聞け!」って、あなた、本気?

2020-08-13 17:55:50 | 哲学

 一切の肉食を、宗教的理由からでもなく、医学的なあるいは何らかの健康上の理由からでもなく、動物虐待に絶対反対の立場から拒否している人を想像してみよう。その人は、人間の食卓に供されるために殺される動物たちの苦痛を思い、肉食は人間による動物の権利の侵害だと訴えるだろう。
 しかし、その同じ人が植物(より具体的には各種野菜)を食べることには一向に抵抗を感じないどころか、毎日盛んに食べているとしよう。この場合、その人は、植物には動物と同じように権利を認める必要はないと考えていることになる。なぜなら、植物は痛みを感じることはないのだから、というのがその理由である。
 ところが、いつ頃からか正確には知らないが、二十一世紀に入るあたりからだろうか、植物の権利を訴える人たちが声を上げ始めた。その中には植物も痛みを感じるし、死の恐怖に怯えているのだと主張する人たちがいる。
 肉食拒否と同じ理屈を立てるならば、植物の権利尊重のために、その人たちは植物を食することを止めなくてはならない。ところが、その人たちは一向に野菜を食べることを止めていない。彼らの態度は整合性を欠いている。なぜなら、植物虐待に反対しながら、自分たちに食される「人参の苦痛の叫び」に耳を貸そうとしないのだから。
 その人たちはこう答えるかも知れない。「確かにそれは人参にとっては苦痛に他ならない。しかし、私たち人間は健康な生活を送るために人参を必要としている。だから、人参に限らず、私たち人間の体の健康に必要とされる野菜の摂取は正当化されうる」と。
 その人たちの中にはさらにこう付け加える人たちもいるかも知れない。「同じ理屈で、人間の健康な生活に必要という条件が満たされれば、肉食も肯定される。この意味で、人参の苦痛も豚の苦痛も等価である」と。
 ビュルガ自身はこんな話はしてないのだが、わかりやすく言えば、ビュルガが許せないのはこの最後のグループなのである。彼女の批判の論拠は次のように簡単にまとめることができる。
 苦痛は個体性のあるもにしか認められない。動物には個体性を認めうる。したがって、個々の動物には苦痛がある。ところが、植物には個体性はない。したがって、個々の植物には苦痛はない。この点において、動物と植物を同等に扱う議論はすべて誤りである。それどころか、植物的生の本当の固有性を隠蔽するものである。
 さて、この議論の後に、エマヌエーレ・コッチャ Emanuele Coccia の La vie des plantes. Une métaphysique du mélange, Bibliothèque Rivage, 2016(邦訳『植物の生の哲学 混合の形而上学』勁草書房 2019年)への言及が見られるのだが、これについては明日の記事で取り上げる。というのも、ビュルガは、コッチャのこの本の書名を挙げておきながら、本文に引用しているのは2019年3月29日付ル・モンド紙の記事に引用されているコッチャの発言の一部だけで(しかも記事の日付が間違っている)、これは、故意でなければ、完全に的外れで、コッチャの本に対してきわめて不当な扱いだからである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


オオカミに襲われるイノシシと同じく、シカにかじられるナラの苗も痛みと死の恐怖を感じているのだろうか

2020-08-12 18:49:24 | 哲学

 ビュルガが『植物とはなにか』で批判の標的にしているのは、近年人気を博している、いわゆる「ネオ・アニミズム」である。この新傾向は、植物も、人間や動物を同じように、痛みを感じるのであり、死を恐れるという考えを世間に広めた。しかし、ビュルガは、このような考え方に価値はないし、ネオ・アニミズムの信奉者たちはそこからなんら論理的な帰結を引き出そうとしていないと批判する。
 というのも、肉食拒否の理由として動物虐待反対を挙げる人たちがいるように、植物にも痛みを認めるネオ・アニミストたちは、植物に危害を加えることを自らやめなければならないのに、彼らは一向に植物を食することをやめてはいないからである。仮に植物を摂取するのを止めても、肉食を続けるのならば、動物たちは大量の植物を摂取して育ったのだから、間接的に植物虐待を行っていることになり、したがって、植物に人間のような苦痛を認める彼らの主張は整合性を欠いている。
 このようないささか性急とも見える批判の対象として、まず槍玉に挙げられているのが、ドイツ人森林管理官ペーター・ヴォールレーベン Peter Wohlleben である。直接的な批判の対象になっているのは、ドイツで2015年に刊行されると瞬く間に70万部の大ベストセラーとなり、現在32カ国語に訳されている『樹木たちの知らせざる生活 森林管理官が聴いた森の声』(Das geheime Leben der Bäum : was sie fühlen, wie sie kommunizieren die Entdeckung einer verborgenen Welt)である(仏訳は2017年に刊行され、邦訳も同年に早川書房から刊行され、翌年には文庫化されている)。
 どういうところが批判されているかというと、例えば、「オオカミに襲われるイノシシと同じで、シカにかじられるナラの苗も痛みと死の恐怖を感じている」というような一節である。批判の要点は二つある。一つは、動物については、実験によって痛みについて実証可能とする科学的根拠があるのに対して、植物の痛みに関しては、なんら科学的根拠がなく、一種の信仰に過ぎないということ。もう一つは、この種の汎生命論的な言説が、実のところ、肉食正当化の隠れ蓑として使われていることである。動物の権利を主張し、肉食を一切拒否するビュルガにとって、この第二点目は特に許しがたいようで、いささか感情的になっているところが気になる。
 今はその点に立ち入らないで、ヴォールレーベンが植物を人間に、植物の世界を人間社会になぞらえて説明しているところをいくつか拾っておこう。

人間と同じように木も痛みを感じ、記憶もある。木も親と子がいっしょに生活している。

樹木はなぜ、そんなふうに社会をつくるのだろう? どうして、自分と同じ種類だけでなく、ときにはライバルにも栄養を分け合うのだろう? その理由は、人間社会と同じく、協力することで生きやすくなることにある。木が一本しかなければ森はできない。森がなければ風や天候の変化から自分を守ることもできない。バランスのとれた環境もつくれない。

森林社会にとっては、どの木も例外なく貴重な存在で、死んでもらっては困る。だからこそ、病気で弱っている仲間に栄養を分け、その回復をサポートする。〔中略〕互いに助け合う大きなブナの木などを見ていると、私はゾウの群れを思い出す。ゾウの群れも互いに助け合い、病気になったり弱ったりしたメンバーの面倒を見ることが知られている。ゾウは、死んだ仲間を置き去りにすることさえためらうという。

“社会の真の価値は、そのなかのもっとも弱いメンバーをいかに守るかによって決まる”という、職人たちが好んで口にする言葉は、樹木が思いついたのかもしれない。森の木々はそのことを理解し、無条件に互いを助け合っている。

 きりがないのでこれくらいするが、こういったネオ・アニミズム的言説が世界的に広く受け入れられるのはわかる。しかし、木の友情とか愛情とか言われると、さすがに私は引く。植物や樹木や森林に対して深い愛情を抱き、その保護に努めることと、それらの世界を擬人化することとは別の問題だろう。