一切の肉食を、宗教的理由からでもなく、医学的なあるいは何らかの健康上の理由からでもなく、動物虐待に絶対反対の立場から拒否している人を想像してみよう。その人は、人間の食卓に供されるために殺される動物たちの苦痛を思い、肉食は人間による動物の権利の侵害だと訴えるだろう。
しかし、その同じ人が植物(より具体的には各種野菜)を食べることには一向に抵抗を感じないどころか、毎日盛んに食べているとしよう。この場合、その人は、植物には動物と同じように権利を認める必要はないと考えていることになる。なぜなら、植物は痛みを感じることはないのだから、というのがその理由である。
ところが、いつ頃からか正確には知らないが、二十一世紀に入るあたりからだろうか、植物の権利を訴える人たちが声を上げ始めた。その中には植物も痛みを感じるし、死の恐怖に怯えているのだと主張する人たちがいる。
肉食拒否と同じ理屈を立てるならば、植物の権利尊重のために、その人たちは植物を食することを止めなくてはならない。ところが、その人たちは一向に野菜を食べることを止めていない。彼らの態度は整合性を欠いている。なぜなら、植物虐待に反対しながら、自分たちに食される「人参の苦痛の叫び」に耳を貸そうとしないのだから。
その人たちはこう答えるかも知れない。「確かにそれは人参にとっては苦痛に他ならない。しかし、私たち人間は健康な生活を送るために人参を必要としている。だから、人参に限らず、私たち人間の体の健康に必要とされる野菜の摂取は正当化されうる」と。
その人たちの中にはさらにこう付け加える人たちもいるかも知れない。「同じ理屈で、人間の健康な生活に必要という条件が満たされれば、肉食も肯定される。この意味で、人参の苦痛も豚の苦痛も等価である」と。
ビュルガ自身はこんな話はしてないのだが、わかりやすく言えば、ビュルガが許せないのはこの最後のグループなのである。彼女の批判の論拠は次のように簡単にまとめることができる。
苦痛は個体性のあるもにしか認められない。動物には個体性を認めうる。したがって、個々の動物には苦痛がある。ところが、植物には個体性はない。したがって、個々の植物には苦痛はない。この点において、動物と植物を同等に扱う議論はすべて誤りである。それどころか、植物的生の本当の固有性を隠蔽するものである。
さて、この議論の後に、エマヌエーレ・コッチャ Emanuele Coccia の La vie des plantes. Une métaphysique du mélange, Bibliothèque Rivage, 2016(邦訳『植物の生の哲学 混合の形而上学』勁草書房 2019年)への言及が見られるのだが、これについては明日の記事で取り上げる。というのも、ビュルガは、コッチャのこの本の書名を挙げておきながら、本文に引用しているのは2019年3月29日付ル・モンド紙の記事に引用されているコッチャの発言の一部だけで(しかも記事の日付が間違っている)、これは、故意でなければ、完全に的外れで、コッチャの本に対してきわめて不当な扱いだからである。
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