内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

一つの同じ場の共有としての笑い ― 西村ユミ『語りかける身体 看護ケアの現象学』読中ノート(9)最終回

2020-08-06 00:00:00 | 哲学

 昨日の記事で予告したように、今日の記事が今回の連載「西村ユミ『語りかける身体 看護ケアの現象学』読中ノート」の最終回です。かなり長い文章(三千字超)ですが、最後までお読みいただければ幸甚に存じます。

 Aさんが本書の著者のインタビューを受け始めたときは、彼女がプライマリーナースとして受け持った二番面の患者、横井さんが亡くなった直後でした。周りのスタッフも元気のないAさんを気遣っていたそうです。そのことに関連して著者は次のように記しています。

病棟の様子を見て回っていると、Aさんと同じグループのスタッフに呼び止められ、「横井さんが亡くなった後のAさんは何かおかしいように思うんです。患者さんが亡くなったことを受け入れられていないのか、辛そうで精神的にまいってしまわないか心配しています。インタビューに参加しているようですが、話を聞いてあげて下さい。私たちではあまり力になれない」と話しかけてきた。この言葉を聞いた時、Aさんと同じようにひとりの受け持ち患者を思い、ともに「臨時体制」を乗り切った仲間の気づかいに触れたような気がした。

 この一節から次の三つのことがわかります。看護師たちは各自プライマリーナースとして受け持ち患者と特に密接な関係を形成していくとしても、それぞれが抱える困難や苦悩に対して気遣いを示し、互いに支え合っていること。しかし、他方、同じ職場であるがゆえに、互いに自由には話せないこともあること。それを聴くことができるのは、同じ看護師として共感しつつも、外部から訪れたインタビュアーとして現場から距離を取ることができる立場のであること。
 Aさんがプライマリーナースとして受け持った三人目の患者、村口さんは二〇代の女性で、Tセンターに入院する三年前に、友人と遊びに行く途中で自動車事故にあった。入院先の病院では、両側減圧開頭血腫除去術が施行された。手術時の診断は、急性硬膜外・硬膜下血腫、頭蓋底骨折などであった。半年を過ぎた頃から、追視や笑顔が見られるようになり、兄や友人の面会時には、笑ったり嬉しそうな顔をすることがあった。
 神経学的には、大脳の左半球が大きく障害を受けており、言語機能の回復は期待できない。また、左の頭蓋骨が欠損しているため、外見的にも左の側頭葉が大きく陥没している。担当の医師は、「ある程度の認識はできていると思う。表情も豊かであり、感情失禁や随意運動としての笑顔も見られる。前頭葉がやられているため、精神的な抑えがきかないようだが、社会性や感情は残っていると思う。ただし、左の言語中枢の方が形態的に全く喪失しているため、言語機能を完全になくした状態にあると考える」という。
 このような状態の患者を受け持ち始めて、Aさんは「コミュニケーションが皆目とれない」という困惑を覚えます。と同時に、それ以前に受け持った住田さんと横田さんとは「言語によるコミュニケーションがしっかりあったし、私自身がそれに頼って、拠り所として」コミュニケーションの確立をめざしていたのだということがよくわかったと言います。
 村口さんは非常に表情が豊かで、看護師のいろいろな働きかけに対して笑顔を見せます。ところが、Aさんは、彼女の笑顔は、本当に楽しい、嬉しいという笑顔であるかどうかは分からないと言います。しかし、笑顔が多いことは悪いことではない、できるだけ笑顔を多く、日中笑って過ごせることの多いほうがいいと考え、Aさんは患者さんを笑わせることに努めます。
 笑いが生理学的に見ても身体に良い効果を及ぼすことは知られていますが、Aさんの次の語りは、笑いの持っているいわば実存的な意味に触れていると私は思います。

医療現場での癒やしっていうのはむしろ、患者だけが癒されてるんじゃなくて、その周りにいる者も癒されて、患者によって癒されてるんじゃないかっていうふうに私は思うけども。それに通じるものは、結局こちら側にある。裏を返せばすごい看護師サイドの独りよがりな感情の走りになってしまうかもしれないですけど。笑わすという行為一つとっても、笑わすことで誰が喜ぶねんっていったら、いちばん喜んでるのは自分たちかもしれないってのはあるけど。患者さんはしゃあなく笑ってる可能性はある。佐倉さんはなんかそれっぽい。……それでも、あー佐倉さん笑ったあ、とかって思わず嬉しくなる。で、うちらが騒ぐと、佐倉さんはますます、にへらにへらすることがあるから、乗ってくれている。お互いに、お互いに一つの同じ場を共有するって実感があるからかもしれませんよね。ただでさえ、こちらサイドの独りよがりになりかねないっていう危機感を、ここのセンターで関わる看護師は持ってると思うんですよ。独りよがりにならないように、看護師だけの思い込みで突っ走らないようにとか、っていう思いは持っていると思う。それを、笑わせる、笑ってもらうっていうので、場を共有した、することができた、空間を共有することができたっていうその手応えが欲しいから、そういうことをやるのかな。……患者はそんな、いらんと思ってるかもしれませんけどね。でも、そういう場が欲しいからやるのかもしれないですよね。

 私たちの日常生活の中でも、コミュニケーションがうまくいっていないような場面で、誰かの一言や仕草によって、あるいはちょっとしたハプニングのおかげで、その場に居る皆が笑うと、途端にその場の空気が和むという経験は誰しもしたことがあると思います。これは、Aさんの言葉を使えば、「お互いに一つの同じ場を共有する」ことができたということなのではないでしょうか。そうであるならば、私たちが笑いを求めるのは、「一つの同じ場所」を誰かと共有したいという人間にとって本源的な欲求から来ていると言うことができそうです。
 図らずも九回に渡って、『語りかける身体 看護ケアの現象学』について、長い引用を繰り返しながら、私自身の感想を記してきました。それでも四つの章からなる本書の第二章について語ったに過ぎません。第二章がそれだけ豊かな内容を持っていることは、今日まで九回お付き合いくださった読者の方々にはわかっていただけていると確信しています。
 Aさんの自己の実感に即した語りに豊かに孕まれている現象学的人間存在論は、第三章において、主にメルロ=ポンティの『知覚の現象学』に依拠しながら、著者によって見事にそれとして引き出され、理論的表現が与えられます。
 第四章では、「実存の奥深い次元における〈身体〉と世界との対話によって分泌され、つねに動的に生み出されつづける意味」の層である「前意識的な層」へと分け入るための方法について、初版当時に英語圏で影響力をもっていた方法論についての批判的考察を通じて、問題点が指摘され、これから日本の現象学的研究の進むべき途が素描されています。初版刊行後から十七年の間に進められてきた研究の成果についても最後に言及が見られます。
 老生の身、すべてのことにおいて、「日暮れて道遠し」の感は致し方ありません。しかし、本書のおかげで、私は、哲学科学部生のときにメルロ=ポンティの知覚論を卒論のテーマとして選んだときから、西田哲学をテーマとして博論において到達した「根源的受容可能性」という次元を通じて、今日まで自分が何をどのように哲学的に考察したかったのか、そしてこれからもしていきたいのかがほんとうによくわかりました。
 愚鈍な私に自分が何をやりたいのか気づかせてくれた本書の著者と看護師Aさんに心からの感謝を捧げます。