今日の記事では、ビュルガが引用していたカンギレムによる生物個体の定義に関連して、ビュルガの本を離れて、生と死の問題について別の観点を導入しておきたい。それは、人間の生死と植物のそれとの関係をビュルガの本とは別のパースペクティヴから見ると、どのような問題が浮かび上がってくるかを示唆するためである。
カンギレムの定義によれば、一個の生物とは「死すべく生まれてきた」のであって、その個体史は生誕から死亡までに限定される。裏返して言えば、死なないものは生物個体ではない。植物の場合、ある一株の草木花が枯死したとしても、それとまったく同一の遺伝情報をもった別の一株が再生し、それを無限回繰り返すことができるのならば、その植物は、潜在的に不死であり、生物個体の定義に反し、したがって生物ではないという帰結に至る。言い換えれば、個体性を前提とした生死の定義は、植物にあてはめることができない。
では、植物的生(la vie végétale)とは、いかなることなのか。少なくとも群体をその基本生態とする植物について死は定義上ありえないとして、種のレベルにおいてはどうか。ある植物種が絶滅することは死ではないのか。生物個体レベルでの死は、個体にとっていわば内在的必然性であるとすれば、種の絶滅は死ではない。なぜなら、その絶滅は、環境の激変、気候変動、自然災害、生態系の破壊等、種にとって外的な要因によって引き起こされたことであり、内在的な必然性には因らないからである。言い換えれば、種の滅亡は、種の生誕時にプログラミングされてはいなかったということである。
さて、ここで人類学的な知見を導入して植物的生の還元不可能な固有性について考える別の手がかりを探ってみたい。
エドガー・モランは『人間と死』の中の Introduction générale の第二節 « La mort en commun et la mort solitaire » の冒頭で、レヴィ=ブリュルを引用しながら、原始社会のように、各成員のその社会への帰属性・一体感が強く深ければ深いほど、つまり個体性が希薄な社会(集団と言ったほうが適切かも知れない)であればあるほど、死の恐怖は薄れるという人類学的な事実を取り上げている。これは、個体としての死の不可避性を知っているのに、それを恐れない、ということではなく、そもそも個体意識が希薄な社会には、個体の死そのものが重要な意味をもたないということを意味している。もし個体が完全に集団と一体化していれば、個体の死はまったく意味を持たず、したがって死の恐怖もありえない。
現実には、このように完全に没個体的な「理想」集団は、たとえ原始社会でも存在しなかったであろう。しかし、少なくとも、個体性の希薄度が死の恐怖の減衰度と対応しているとは言えるだろう。とすれば、個体性の零度は不死性に対応していることになる。もちろん、これは、このような「理想」集団においては、各個人は永遠に生きる、ということを意味しているのではない。群生する樹木の中の一本が枯死するように、個体であるかぎり、死は遅かれ早かれ訪れる。しかし、個々の個体の死は、それら個体が帰属する集団の全体的生を損なうものではない。
ここまで推論を重ねれば、植物的生をいたずらに理想化する「植物理想主義 l’idéalisme végétal」(現代の生態学的思想に見られる一傾向を仮にこう名付けた)に見られるように、植物的生からの無媒介な類比によって人間社会のモデルを考えることがきわめて危険な帰結をもたらすことはもはや明らかであろう。
植物は、人類よりも、他のいかなる動物たちよりも、遥か以前からこの地球に生息してきた。植物たちは、人類にも他のいかなる動物たちもまったく依存することのない生態系を形成してきた。それに対して、人類も動物たちも植物なしには生きられない。
植物的生から私たちが何かを学び、この地球上でよりよく生きるためには、まず、植物的生の絶対的他性、というのは言い過ぎであるとすれば、植物的生との共約不可能性を自覚し、その上で、植物、そして動物と持続的に共生できる世界の在り方を探すことだろう。