内的自己対話-川の畔のささめごと

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オオカミに襲われるイノシシと同じく、シカにかじられるナラの苗も痛みと死の恐怖を感じているのだろうか

2020-08-12 18:49:24 | 哲学

 ビュルガが『植物とはなにか』で批判の標的にしているのは、近年人気を博している、いわゆる「ネオ・アニミズム」である。この新傾向は、植物も、人間や動物を同じように、痛みを感じるのであり、死を恐れるという考えを世間に広めた。しかし、ビュルガは、このような考え方に価値はないし、ネオ・アニミズムの信奉者たちはそこからなんら論理的な帰結を引き出そうとしていないと批判する。
 というのも、肉食拒否の理由として動物虐待反対を挙げる人たちがいるように、植物にも痛みを認めるネオ・アニミストたちは、植物に危害を加えることを自らやめなければならないのに、彼らは一向に植物を食することをやめてはいないからである。仮に植物を摂取するのを止めても、肉食を続けるのならば、動物たちは大量の植物を摂取して育ったのだから、間接的に植物虐待を行っていることになり、したがって、植物に人間のような苦痛を認める彼らの主張は整合性を欠いている。
 このようないささか性急とも見える批判の対象として、まず槍玉に挙げられているのが、ドイツ人森林管理官ペーター・ヴォールレーベン Peter Wohlleben である。直接的な批判の対象になっているのは、ドイツで2015年に刊行されると瞬く間に70万部の大ベストセラーとなり、現在32カ国語に訳されている『樹木たちの知らせざる生活 森林管理官が聴いた森の声』(Das geheime Leben der Bäum : was sie fühlen, wie sie kommunizieren die Entdeckung einer verborgenen Welt)である(仏訳は2017年に刊行され、邦訳も同年に早川書房から刊行され、翌年には文庫化されている)。
 どういうところが批判されているかというと、例えば、「オオカミに襲われるイノシシと同じで、シカにかじられるナラの苗も痛みと死の恐怖を感じている」というような一節である。批判の要点は二つある。一つは、動物については、実験によって痛みについて実証可能とする科学的根拠があるのに対して、植物の痛みに関しては、なんら科学的根拠がなく、一種の信仰に過ぎないということ。もう一つは、この種の汎生命論的な言説が、実のところ、肉食正当化の隠れ蓑として使われていることである。動物の権利を主張し、肉食を一切拒否するビュルガにとって、この第二点目は特に許しがたいようで、いささか感情的になっているところが気になる。
 今はその点に立ち入らないで、ヴォールレーベンが植物を人間に、植物の世界を人間社会になぞらえて説明しているところをいくつか拾っておこう。

人間と同じように木も痛みを感じ、記憶もある。木も親と子がいっしょに生活している。

樹木はなぜ、そんなふうに社会をつくるのだろう? どうして、自分と同じ種類だけでなく、ときにはライバルにも栄養を分け合うのだろう? その理由は、人間社会と同じく、協力することで生きやすくなることにある。木が一本しかなければ森はできない。森がなければ風や天候の変化から自分を守ることもできない。バランスのとれた環境もつくれない。

森林社会にとっては、どの木も例外なく貴重な存在で、死んでもらっては困る。だからこそ、病気で弱っている仲間に栄養を分け、その回復をサポートする。〔中略〕互いに助け合う大きなブナの木などを見ていると、私はゾウの群れを思い出す。ゾウの群れも互いに助け合い、病気になったり弱ったりしたメンバーの面倒を見ることが知られている。ゾウは、死んだ仲間を置き去りにすることさえためらうという。

“社会の真の価値は、そのなかのもっとも弱いメンバーをいかに守るかによって決まる”という、職人たちが好んで口にする言葉は、樹木が思いついたのかもしれない。森の木々はそのことを理解し、無条件に互いを助け合っている。

 きりがないのでこれくらいするが、こういったネオ・アニミズム的言説が世界的に広く受け入れられるのはわかる。しかし、木の友情とか愛情とか言われると、さすがに私は引く。植物や樹木や森林に対して深い愛情を抱き、その保護に努めることと、それらの世界を擬人化することとは別の問題だろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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