内的自己対話-川の畔のささめごと

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私たちは「故郷」からどれだけ遠く離れて生きているのか ― 植物がその形によって無邪気に語る言葉を「聴く眼」をもった哲学者ショーペンハウアー

2020-08-19 15:33:42 | 哲学

 ショーペンハウアーは、『意志と表象としての世界』第一巻第二十八節で、植物と動物と人間との間の差異について、次のように述べている。

外形だけで自分の性格を全部表わし、明らさまに示す植物の素朴さについてここで注意を促しておきたい。植物は単なる外形だけで、自分の存在と意欲の全部を表明しているわけだから、植物の外貌はあんなにも面白いかたちをとっているのである。動物はこれに対し、動物のイデアのうえから認識されるためには、すでにその行動と動作において観察されることが必要であって、さらに人間に至っては、理性をもっているので、擬装の能力を高度にそなえ、人間は徹底的に調査されたり、試験されたりすることが要求されている。(西尾幹二訳 中公クラシックス 2012年。以下同様)

この生きんとする意志が完全に剥き出しのままに、が、はるかに微弱なかたちで現われるのは植物においてであって、植物における生きんとする意志は目的も目標ももたない生存への純然たる盲目の衝動にほかならない。なぜなら植物は一目見ただけでもまったく無邪気に、その本質全体を表わしているからである。

植物のこの無邪気さは植物には認識がないということにもとづいている。すなわち邪気は意欲にあるのではなく、認識を伴った意欲にあるからである。

ところでいかなる植物でもまず語っているのは、その故郷であり、故郷の気候であり、それが発芽した土壌の性質である。[…]しかしそのうえさらにどの植物も、それぞれの種族の特殊な意志を表明していて、他のいかなる言葉でも語ることのできないなにかを語っている。

 ショーペンハウアーの眼は、植物たちがそのそれぞれの形によって無邪気に自分たちのことを語る言葉を「聴き取る」ことができたのだろう。
 私たちが植物を見て、なにか言い知れぬ郷愁を感じることがあるとすれば、それは、私たちが「故郷」からどれだけ遠く離れて生きているのかということを、植物たちが自分たちの故郷を無邪気に「語る」ことで、私たちに無言のうちに示しているからなのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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