内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

困難な時の恵み ― 外出禁止令期間中に見出された時間をポジティブに生きた人たち

2020-05-11 23:59:59 | 雑感

 外出制限令段階的解除初日の今日、生憎というか幸いにというか、朝から雨、気温も昨日と比べて十数度一気に下がり、さあ今日から「自由に」外出できるぞと逸る気持ちに自然が水を差してくれた。昨晩、フランス南西地方は集中豪雨に見舞われ、洪水や土砂崩れが起こって道路が寸断された村もあるようだ。コロナウイルス禍の打撃が比較的軽かった「グリーン・ゾーン」の地方も別の自然の猛威に曝されてしまったわけである。
 外出禁止令が発効してからの二ヶ月間、ネットでコロナウイルス関連のニュースを検索するのが日課になってしまった。今朝もさまざまな記事に目を通していて、アルザス地方紙のある記事が目に止まった。
 それは外出禁止令下の二ヶ月間をむしろポジティブに生きた人たちの証言を集めた記事だった。もちろんこれは一部の人たちの感想に過ぎない。外出禁止令期間も問題なく仕事を続けられた人、収入に心配のない人、もともと恵まれた生活環境で暮らしている人たちなどである。
 彼らは、この間、以前よりも家族と一緒に過ごす時間が長くもてたり、他にすることがないからこそゆっくりと読書に沈潜することができたり、以前は挨拶程度だった共同住宅の隣人たちとときに中庭でバーベキューを囲んで歓談して仲良くなったり、それまで日々の仕事に追われて脇にのけていた中長期的な仕事のプランをじっくりと練ったり、忙しくてできなかった趣味の手芸を再開したりと、それまでとは違った時間の過ごし方を経験することで、これまでとは別の時間、或いは、これまで見失われていた時間の価値を見出したのだ。
 彼らは、大きな声では言えないけれど、と前置きした上で、「まださらに二ヶ月間続いてほしいくらい」、「これで終りかと思うと涙が出てくる」などという感想をインタビュアーである記者に電話口で囁いたそうだ。こんな記事を読んで、「ふざけるな! こっちがどれだけ大変な思いをしているかわかっているのか!」と怒り心頭に発する人たちももちろんいらっしゃるだろう。その気持ちもよくわかる。
 ただ、自由に生きられないからこそ見いだされた(あるいは再び見いだされた)時間の経験を今後に生かせるかどうかで私たちのこれからの生き方は大きく違ってくるとは言っていいだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


外出制限令下「最後の一日」の不思議な光景の理由

2020-05-10 20:58:11 | 雑感

 三月十七日に始まり八週間続いた外出制限令(自宅待機令)の段階的解除の第一段階が明日月曜日の午前零時に始まる。街の様子はどのように変わるだろうか。職場での仕事に復帰する人たちや学校への通学を再開する子供たちはどんな表情を見せるだろうか。この目で確かめてみたい。
 今日日曜日は、外出制限「最後の一日」であったわけだが、午前十一時少し前にウォーキングのために外に出て、少し驚かされた。散歩している人やジョギングしている人がやたらに多いのである。確かに、この季節、気持ちの好天に恵まれれば外に出かけたくなるものだが、それにしても例年より目立って多い。
 この約二月間、外での運動は一日一時間に制限されていたが、明日からはその制限も解除される。いたいだけ外にいていいのである。公共交通機関を利用するときや人の集まる場所ではマスク着用が義務化されているが、ウォーキングその他の運動の際にはマスク着用は義務でもない。
 それでも、明日を待てずに、「前祝い」気分でつい外出したくなったのだろうか。特に興味深かったのは、親子と思われる人たちが一緒にジョギングしている姿が目立ったことである。特に中高生くらいの子供たちと一緒に走っている父親が多かった。
 これは推測に過ぎないが、外出制限令以前、彼らは一緒に走ることなどなかったのではないだろうか。外出制限令によって強いられた不自由が彼ら親子に一緒に走る機会を与えた。明日からは、それぞれもっと自由に外出できる。学校閉鎖がまだ継続される中高生たちも、明日からはもっと自由に友だちと会えるようになる。それで、今日が一緒に走る「最後の一日」になるかも知れないから、とまで言えば言い過ぎだろうが、せっかく一緒に続けてきたジョギングだから、外出制限令下の最後の一日も一緒に走ろうじゃないかと父親が子供たちを誘ったのかも知れない。
 明日、「もとの生活」に戻るわけではない。特に、私もそこに住んでいる「レッド・ゾーン」では、感染予防・拡大防止のために細心の注意を皆が払い続けなくてはならない。むしろ、明日からの方が、各自の責任と判断において市民として良識ある行動が求められるという点において、以前には感じることのなかった緊張を街中で覚えるのではないかと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


九月からの新学期のオンライン体制の準備開始

2020-05-09 17:23:28 | 雑感

 今、学年末の試験期間中で、日本学科でも来週末までまだいくつかの試験が残っている。もちろんすべてオンライン試験である。それが終われば教員たちは採点に取り掛かり、月末までに成績を事務に届け、六月初めに成績判定会議を行う。その会議もオンラインである。
 通常、秘書課がプリントアウトしてくれた全学生の成績一覧表に表示された各学生の合否判定と総合平均点を私が学年ごとにアルファベット順に読み上げていき、他の教員はそれを聴きながら自分の担当科目の点数に誤り・異常がないかチェックしていく。全学年で二時間ほどかかる。
 おそらく ZOOM を使うことになるが、成績表を共有画面にすると、万が一情報が外部に漏れないともかぎらないから、成績表を各教員にPDF版で予め送っておいてチェックしてもらうという方法を取ろうと思う。その方式の方が会議の進行も速く、問題があれば効率よく処理でき、間違いの発見もしやすい。
 三月半ばから準備期間なしに始めたオンライン授業・配信授業だったが、各教員それぞれに準備を重ねることでツールの使用にも慣れ、オンライン授業の利点にも気づいた。成績判定会議にも、オンラインの方が上記の理由からかえって好都合な点がいくつかある。
 五月は例年来年度前期の時間割作成を開始する時期であるが、それも今回は特例的な事態を想定しつつ準備に入らなくてはならない。昨日の国民教育大臣の会見によると、教室の授業とオンライン授業との組み合わせを現時点では優先的に考えているようだ。現状からすれば、これはもっともな判断であり、現場でもその線に沿って対応策を考えることになるだろう。
 特に多数の学生が集まる大教室での授業やプログラムは避けるべきだが、新学期授業開始直前の一週間は新入生たちのためのガイダンス・プログラムが目白押しで、それが教室でできないとなると、新入生たちが戸惑うことは避けられないだろう。たとえオンライン体制が九月までにより整えられたとしても、教室で一度も顔を合わせることなく、説明だけコンピューターの画面を通じて受けても、彼らにとっては、それこそ雲を掴むような話で、大学の雰囲気を体感することはできないだろう。
 毎年、学科オリエンテーションの直後に、質問のある学生たちが教員たちの前に行列を作るのが恒例になっているが、それも不可能となると、オリエンテーションとは別に機会を設け、少人数のグループに分けて面談することなども想定しておかなくてはならない。
 九月から日本の大学に留学する学生たちもいるが、これも受入大学によって対応が違うであろうから、それに応じでこちらも柔軟かつ迅速に対応を考えなくてはならない。
 夏休み中に感染が終息することを期待するのは現時点ではあまりにも楽天的に過ぎる想定であり、最悪の場合、授業及び学科の運営に関わる職務はすべてオンラインで滞りなく行うことができるような体制を夏休み前に整えておく必要がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


外出制限の段階的緩和が来週月曜日から始まる

2020-05-08 13:54:08 | 雑感

 フランスでは来週月曜日から外出制限が段階的に緩和されていきます。感染状況に応じて地方ごとに措置が異なります。
 もともとウイルス感染拡大が限定的で患者数・死亡者数も少なく、医療機関にも余裕がある「グリーン・ゾーン」は、さっそく職場への復帰、学校の段階的再開、公園の開門などが実行に移されます。
 他方、まだ入院患者数が多く医療機関が限界状況にある地方(私が住んでいるアルザス地方もその中に入っている Grand Est など)とパリ及びパリの周囲の県からなるイル・ド・フランスなど「レッド・ゾーン」では、中学・高校は閉鎖のまま、公園も閉鎖継続、テレワークでできる仕事はそのままそれを継続することが強く推奨されています。
 パリおよびその周囲の地域では公共交通機関による移動に大きな懸念があります。いわゆる社会的距離(フランスでも、外出制限令発令当初は、英語の “social distancing” に倣って、« distanciation sociale » という言葉を盛んに使っていましたが、先月末辺りからでしょうから、それが « distanciation physique » という言葉に取って代わられるようになりました)を車内で保つことはまず不可能であり、そうなるとマスク着用が絶対条件になりますが、この条件の徹底した遵守がきわめて難しいと思われるからです。
 公共交通機関における11歳以上の者のマスク着用は義務化され、違反者には135ユーロの罰金が課されますが、それでも違反者は出るでしょう。警備に当る職員と乗客の間の争いあるいは乗客同士の争いもありえないことではありません。
 ストラスブールのような地方都市でも、路面電車の中で各人が一メートル四方の距離を取れるのは、よほど空いているときに限られます。これから天気のいい日が続きますから、みなできるだけ徒歩か自転車で移動するように心掛けるだろうと思います。私も路面電車には当分乗るつもりはありません。
 来週以降、街に出る人がどっと増えるのは確実ですが、11日の時点で一般市民に十分にマスクが行き渡るかどうか、少なくとも私が住んでいるストラスブールではちょっと微妙なところです。住民税納税者およびその家族全員に市と県とがそれぞれ一枚ずつ無償で布製マスクを配布することになっていますが、生産が追いつかず、配布開始は20日以降になるようです。私自身は先月29日ドイツの会社に布製のFFP2マスクを注文しましたが、それが今週火曜日5日に届きました。
 カフェやレストランはまだ全国的に閉鎖されたままですが、理髪店や美容院など、いわゆる濃厚接触が避けがたい職種でも営業再開されます。私も早く散髪に行きたいと思っているのですが、来週はどこも予約が殺到すると予想されています。試しに来週火曜日にいきつけの理髪店に電話してみようと思っています。
 大学に関しては、どうしても必要がある者に限って、事前に許可を得た上で、建物内へ入ることが許されます。私はまったく必要がないので、このままテレワークを続けます。
 この第一段階を今月末まで継続して、感染の再拡大が見られないようならば、緩和の第二段階に入るとのことです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


仕事のストレスが緩和されたら途端に歯痛が鎮まりはじめた

2020-05-07 23:59:59 | 雑感

 体は実に正直なものというのでしょうか、4月29日の記事で話題にした歯痛のことですが、ストレスの大きな要因であった仕事が一応片付いた数日前から、自ずと緩和されてきました。まだ強く噛みしめると痛みを感じますが、それも我慢できる程度まで軽減しました。先月末、一番ひどかったときは、食事中、上下の歯がちょっと触れ合っただけで激痛が走り、その痛みが鎮まるまで何も口にすることができないほどでしたが、今では、例えば、痛い方の右奥歯でもアーモンドを噛み砕くことができるほどになりました。まだ痛みが消えたわけではないので、できるだけ右側を使うことは避け、主に左側で噛んでいますが、大抵の食物は歯痛のことをほとんど気にせずに食べられるところまで回復しました。それだけでも随分気分が晴れやかになりました。
 歯痛が激しかった間、ひとつ可笑しかったことは、激しい歯痛の直接の原因であった歯ぎしりがその歯痛のせいでできなかったことです。していたとすれば、激痛で目が覚めていたことでしょう。確かに鈍痛のせいで眠りの質はあまりよくありませんでしたが、せめて寝ている間は休息できるようにと体が自ずと自衛したということでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


メンデルスゾーン弦楽四重奏曲第一番・第二番 ― 清澄な旋律が流麗に奏でられる「育ちの良い」音楽

2020-05-06 12:27:51 | 私の好きな曲

 五月三日日曜日まで締切りが迫っている仕事の処理にずっと追われていました。それらが一応片付いたので、私自身ちょっと息抜きがしたくて、月曜から「私の好きな曲」についてお話ししています。ちょっと「しりとり」みたいなのですが、今日は昨日の記事で話題にしたミネッティ弦楽四重奏団の別の演奏を取り上げます。
 この四重奏団のメンバー全員が大変な実力の持ち主であることは、私などがおこがましく喋々するまでもないことです。HMVのこちらの紹介記事を御覧ください。別のサイトの情報ですが、第二ヴァイオリンのアンナ・クノップさんのお母様は日本人だそうです。
 なぜこの人たちの演奏が私はこんなにも好きなのだろうかと自問してみました。素人の私に何か気の利いたことが言えるわけでもないのですが、この人たちの演奏を聴いていると、まず何よりも「育ちの良さ」を感じるのです。奇を衒うところがいっさいなく、実に豊かな音楽性が自ずと流露する演奏とでも言えばいいでしょうか。だからハイドンとの相性がとてもいいのでしょう。
 育ちの良さと言えば、作曲家の中ではメンデルスゾーンの名がすぐに浮かんできます。その弦楽四重奏曲第一番・第二番をミネッティ弦楽四重奏団は2012年にリリースしています。こちらも相性がピッタリというのでしょうか、その清新流麗な輝くばかりの演奏を聴いていると幸福な気持ちになります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ミネッティ弦楽四重奏団のハイドン弦楽四重奏曲Op.64-4、Op.74-3『騎士』、Op.76-5

2020-05-05 23:59:59 | 私の好きな曲

 クラシックの場合、「私の好きな曲」というカテゴリーとは別に「私の好きな演奏」「私の好きな演奏家(たち)」を立てた方がいいと思うこともしばしばある。曲そのものは名曲中の名曲でも、そのすべての演奏が素晴らしいわけではないし、演奏家だっていつも「アタリ」とは限らない。録音の良し悪しという問題もある。
 ネット上には、クラシックに話を限っても、それこそ数え切れないほどの音楽関係のブログがあり、私もかつてはそれらを足繁く訪問し、そこで推薦されている(あるいは激賞されている)CDを買い求めたものである。
 昨日の記事で話題にしたハイドンの弦楽四重奏曲の演奏に関しても、高度な知識を備えられた識者・好事家の方々のご意見を参考にしていろいろな演奏を聴き比べてみた。それはそれでとても楽しい時間である。まったく知らなかった四重奏団に出逢えるのも嬉しい。
 コダーイ弦楽四重奏団の演奏はいわば「楷書」の演奏で全曲安心して聴ける。玄人の方々からはいささか物足りない演奏と評価されることもあるが、私にとってはいつ聴いてもとても感じのよい演奏である。
 若手の弦楽四重奏団にも素晴らしい演奏家たちが次から次に出てきている。とてもフォローできない。その中で私が特に好きなのは、ミネッティ弦楽四重奏団。設立は2003年。ウィーン国立音楽演劇大学でアルバン・ベルク四重奏団のメンバーなどに師事。四人とも1982年生まれで、すでに一流の四重奏団としての地位を確立しているから、若手という言葉はもうふさわしくないかも知れない。
 彼らが2009年に発売したハイドン弦楽四重奏曲Op.64-4、Op.74-3『騎士』、Op.76-5 は本当に素晴らしい。最初に聴いたのは数年前だが、以来何度聴いても惚れ惚れとしてしまう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ハイドン弦楽四重奏曲Op.72-2『雲がゆくまで待とう』

2020-05-04 23:59:59 | 私の好きな曲

 拙ブログにはさまざまなカテゴリーがあるが、その中の一つが「私の好きな曲」である。最近はこのカテゴリーに当てはまるような記事をまったく書いていない。今年に入ってからはまだ一件もない。その間音楽を聴いていなかったわけではない。自宅待機令以前から普段自宅で仕事をすることが多く、そういうときはアップルミュージックやアマゾン・ミュージックでクラシックのテーマ別に編集された何時間も続くコンピレーションをストリーミングで流しっぱなしにしている。それらの曲や演奏の中には、はたと仕事の手を休めて聴き入ってしまうものもときにはあったのだが、記事を書きたくなるような曲や演奏に出逢うことはなかった。
 三月後半からの自宅待機令下くり返し聴いているのはハイドンの弦楽四重奏曲全集である。ハイドン先生にはまことに申し訳ないが、真剣に聴いているわけではない。仕事中バックグラウンド・ミュージックとして流している。であるから、あまり才気に満ちた溌剌とした演奏よりも、頭をすっきりさせてくれ、気持ちを清々しく或いは落ち着かせてくれる演奏がいい。というわけで、コダーイ弦楽四重奏団による全集を控えめの音量で流している。ストリーミングのいいところはCDならば二十五枚組のこの全集を切れ目なくずっと流せることである。合計二十五時間三十分であるから丸一日流していても終わらない。
 CD版の最後の一枚は『十字架上のキリストの最後の7つの言葉』であるが、これを除くと、最後の一曲は『雲がゆくまで待とう』である。この曲が他のハイドンの弦楽四重奏曲より特に好きというわけではないのだが、ハイドン先生ご本人による命名ではないこのタイトルが実にいいなあと思っている。
 不確定な未来を案じてもどうにもならない。雲がゆくまで待とう。今日も書斎の窓から空を見上げながらそう呟いている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


今年度最後の課題に対する学生(チャレンジャー)たちの回答抜粋集―忘れがたい今学期の記念として

2020-05-03 14:59:47 | 講義の余白から

 昨日の記事は暗澹たる内容だったので、今日の記事では明日への希望の光が差し込んでくるような話をいたします。
 昨日が今年度最後の宿題の提出締切日でした。大学が閉鎖されてから合計六回、毎週宿題を出しました。五回目までは課題提示から五日後が締切りで、時間をかけて考えている暇はあまりなかったはずですが、半数近くの学生は毎回締切日前に提出してくれました。ところが、最後の宿題である六回目の宿題は四月二十日に課題を提示しましたから、締切りまで十二日間あり、しかも先週は春休みだったにもかかわらず、早めに出してくれたのは二三人だけで、残りの二十数名は昨日の夕方以降になって次々と送信してきました。つまりそれだけみな悪戦苦闘したわけです。
 無理もない話です。日本学科の(いや、哲学部でも)学部レベルではありえない以下のような課題を出したのですから。

自然と人間とは、技術を介して、これからどのように新しい関係を構築すべきか。この問いに対するあなたの考えを述べなさい。まず、シモンドンと三木清の技術の哲学の要点をそれぞれまとめ、それから自分の考えを述べなさい。

 しかも、これはシモンドンと三木清の技術の哲学についての私の日本語での計三時間に渡る超難解な録音講義を聴かなければ答えられない問題なのです。日本の哲学科の学部生だって仰天するような課題を、なぜか日本学科の学部三年生に横暴にも学科長の権力(そんなものは実は薬にしたくてもないのだが)を振り回して押し付けたわけです。サディスティックこの上ないアカハラとして提訴されても仕方がないような暴挙と言っても過言ではないでしょう。ただ、かねてより、私の授業に文句がある学生は学科長に訴え出る権利があると伝えてありましたが、そういう苦情は私のところには一切来ていないことをここに明言しておきたいと思います。
 いつも早めに長文の見事なレポートを提出してくれる最優秀の学生も、「お待たせ致しました。やはり先生がおっしゃった通り大変むずかしかったです。頭が痛くなるほど一生懸命に理解しようとしました。(笑)」とのメッセージ付きでレポートを送ってくれました。
 一応八百字から千字までと長さを指定しましたが、「書きたければ書きたいだけ書いてよい」と付け加えておいたので、千字を超える力作が半数近くを占めました。最長はなんと五千字です。
 今朝、計二十八枚の宿題の添削を終え、すべて返送しました。以下、学生(チャレンジャー)たちの珠玉の回答集からほんの少しだけ抜粋しましょう。学部最終学期終了時の彼らの知力の到達点をそこに垣間見ることができるでしょう。

私の意見では、全世界が今経験しているパンデミックは、自然が人類に与えるもう一つのチャンスです。これは、人々が地球との付き合い方について考え直す機会です。

シモンドンは、技術が人間を間化したと考える人たちに対して、技術を間化したのは人間だと答えます。

技術が進歩することで自然と人間とが技術を介して新しい関係を構築するとき、「自然」という言葉の定義そのものを見直すべきに違いない。

「距離のパトス」と「回帰のパトス」の話を聞いたとき最初に思ったことは、人間と神の関係も同じようだということである。最初、両者は統一されていたが、人間は神から離れ、そして最終的には神の愛を探しに帰るだろうという気持ちが心のどこかにある。

シモンドンにとって、技術的オブジェクトからの人間の疎外は、機械による人間の作業の収奪によって説明されるものではなく、技術的オブジェクトの存在モードとその内部機能の誤解によって説明されるものです。

私は、人間と自然を保護するために、技術の知識を誰もが利用できるようにし、特定の企業が喧伝する偽情報と戦い続けなければならないと思う。

確かに汚染の問題はある意味技術が引き起こした問題ではありますが、現在の問題は技術ではなく社会の問題だと思います。つまりは資本主義的な今の社会では自然の事より利益の事を優先させているせいで、技術の悪い間違った使い方が止まらなく、自然は破壊されてゆく。そのため、私は社会そのものが変わらない限り、この人間と自然との関係は変わらない、変わっていけないと思います。

技術的な発明という行為は、集団へ開かれた個体的な行為であり、技術の内在的な規範性は、文化的な規範に左右されずに、社会のためにより普遍的な価値体系とともに、新しい道徳的な規範を成立していくことができる。この意味では、シモンドンは規範と価値のダイナミズムの中に倫理があると考えている。

シモンドにとって、「倫理」は一種の準安定的なバランス(純粋な倫理と応用倫理を区別しないこと)であり、つまり、時間の経過とともにゆっくりと進化する事で、この遅さにより、全体として安定性が得られる。倫理的問題と技術的問題は不可分である。

自然を支配するのは唯一の創造主ではない。バランスをとるためには、ある程度の破壊も必要である。この意味で、技術的なオブジェクトを生み出す創造的なプロセスは、新しい創造だけでなく破壊も目的としている。したがって、創造は破壊を生み、それが今度は新しい創造を生む。

これまで、技術と自然はまったくコンパチブルではないと思っていたが、意見が変わった。これまで、技術は自然の破壊のシノニムだったが、今それは違うと思う。三木清に同意する。技術は自然を破壊しないが、それを使って人間が破壊する。技術のせいではない。

 大学が閉鎖され、自宅待機令が出てから、私はほんとうに好き勝手に授業をいたしました。自分が学生たちに伝えたいと思うことだけを話しました。それに文句も言わずについてきてくれた学生たち(その何人かは心のこもった感謝の言葉さえ私に送ってもくれました)に心から感謝します。この困難な時期を、物理的には離れ離れでしたが、彼らと一緒に過ごしたことを私は一生忘れないと思います。彼らのうちの何人かとは夏休み後に修士課程で再会できることを今から楽しみにしています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


社会を蝕む格差を可視化するコロナウイルス禍が私たちに突き付けている問い

2020-05-02 23:59:59 | 哲学

 昨日の記事で話題にした学生たちのレジリエンスはけっして誇張ではないし、ましてや作り話でない。ただ、きわめてネガティヴな他面を隠蔽して綺麗ごとで済ませるわけにももちろんいかない。各人が置かれた生活環境の差がどれだけ大きいかを今回のコロナウイルス禍は白日の下に曝した。
 私が直接知っている学生たちに話を限るとして、大学閉鎖と同時にアルザス地方の小さな村にある実家に戻り、広々とした家で家族とともにあまり閉塞感なしに過ごせている学生がいる一方、家族から遠く離れ大学の宿舎の狭い一室で毎日孤独に過ごさなければならない学生もいる。アルバイトができずに日々の食費にさえ事欠く学生もいる。メンタルのバランスを崩してしまった学生もいる。
 もちろんこれらの問題は学生たちだけの問題ではない。それぞれ置かれた環境の差はいつでもあると言えばそれはその通りだ。しかし、今回のコロナウイルス禍は、社会にもともと存在していた経済格差を如実に、そして残酷な仕方で顕在化した。
 弱者を打ちのめしているのは、コロナウイルスそのものだけではない。いや、むしろその「二次災害」としての日常生活・社会生活・経済生活の不安定化の方が長期的に深刻な問題であり、もはや国単位で解決できる問題ではない。ポスト・コロナの世界があるとして、私たちはいつまた襲ってくるか分からないより強力なウイルスに怯えながらその世界を生きなければならない。
 その怯えが他者への不信と他なるものの排除に向かわないという保証はない。自分(たち)だけが救われることを望む、あるいは自分(たち)だけは大丈夫だと信じている利己的存在間の相互不信は、敵味方に分かれて争う戦争よりも、無辜の市民を襲うテロリズムよりも恐ろしい結果を人類にもたらさないと誰が言えよう。
 怯えは連帯の絆とはなりえない。「もとの生活」に戻ることはもはや誰にとってもあり得ない。それでもなお共生する未来を構想しうるパトスとロゴスを私たちはもっているだろうか。