内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

社会を蝕む格差を可視化するコロナウイルス禍が私たちに突き付けている問い

2020-05-02 23:59:59 | 哲学

 昨日の記事で話題にした学生たちのレジリエンスはけっして誇張ではないし、ましてや作り話でない。ただ、きわめてネガティヴな他面を隠蔽して綺麗ごとで済ませるわけにももちろんいかない。各人が置かれた生活環境の差がどれだけ大きいかを今回のコロナウイルス禍は白日の下に曝した。
 私が直接知っている学生たちに話を限るとして、大学閉鎖と同時にアルザス地方の小さな村にある実家に戻り、広々とした家で家族とともにあまり閉塞感なしに過ごせている学生がいる一方、家族から遠く離れ大学の宿舎の狭い一室で毎日孤独に過ごさなければならない学生もいる。アルバイトができずに日々の食費にさえ事欠く学生もいる。メンタルのバランスを崩してしまった学生もいる。
 もちろんこれらの問題は学生たちだけの問題ではない。それぞれ置かれた環境の差はいつでもあると言えばそれはその通りだ。しかし、今回のコロナウイルス禍は、社会にもともと存在していた経済格差を如実に、そして残酷な仕方で顕在化した。
 弱者を打ちのめしているのは、コロナウイルスそのものだけではない。いや、むしろその「二次災害」としての日常生活・社会生活・経済生活の不安定化の方が長期的に深刻な問題であり、もはや国単位で解決できる問題ではない。ポスト・コロナの世界があるとして、私たちはいつまた襲ってくるか分からないより強力なウイルスに怯えながらその世界を生きなければならない。
 その怯えが他者への不信と他なるものの排除に向かわないという保証はない。自分(たち)だけが救われることを望む、あるいは自分(たち)だけは大丈夫だと信じている利己的存在間の相互不信は、敵味方に分かれて争う戦争よりも、無辜の市民を襲うテロリズムよりも恐ろしい結果を人類にもたらさないと誰が言えよう。
 怯えは連帯の絆とはなりえない。「もとの生活」に戻ることはもはや誰にとってもあり得ない。それでもなお共生する未来を構想しうるパトスとロゴスを私たちはもっているだろうか。