内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

キリスト昇天祭の今日木曜日から大学は四連休

2020-05-21 23:59:59 | 雑感

 今日木曜日は、キリスト昇天祭、国の祝日です。復活祭の日曜日から起算して四十日後なので必ず木曜日になります。
 先々週でしたか、学長名の全教職員宛のメールが届きました。「大学閉鎖から二ヶ月余りに渡る全職員の献身的努力に感謝する。昇天祭翌日の金曜日も一切の大学業務を休止し、四連休にする。ここで少し休息して、これまでの疲れを癒やしてほしい」という内容でした。
 採点作業が終わっている教員たちは、確かにここでちょっと一息入れておいたほうがいいでしょうから、この計らいは時宜を得たものだと言えます。
 休み明けの二十五日月曜日からは来年度の準備に向けて動き出さなくてはなりませんから、私も少し休息させていただきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


九月からの新学年で採用されるであろうハイブリッド授業方式について

2020-05-20 18:36:47 | 雑感

 今日は今さっきまで二時間、学部会議がオンラインで行われた。BigBlueButton という大学のイントラネットに統合されたアプリを使った。全部で五十五名参加したが、特にコネクションの問題はなかった。大学としては、セキュリティの点から、ZOOMやTeams ではなく、このアプリをオンライン授業でも使うことを推奨している。
 私にとっては今日が初めてだったので、まだ使い方がよくわかっていないところも多々ある。第一印象としては、ZOOMに比べてやや接続の安定性に欠けていた。ときどき音声が不安定になり、途切れてしまうことがあった。それがアプリの問題なのか、発言者が使っている機種によるのか、それぞれの接続速度の問題なのかはわからない。会議中に気づいたことは、非常に音声がクリアーで聞き取りやすい場合とそうでない場合の差がかなりあったことだ。これも使用機種やマイクの性能の問題に過ぎないのだろうか。チャットは自動的にスクロールしてくれなかったが、これは設定が変えられるのかも知れない。今回は画面共有が必要ではなかったので、その使い勝手については確かめられなかった。
 議論は九月からの新学年の準備に関する諸問題に集中した。現段階で確かなことは、教室での授業が可能になるのか、なるとしてそれがどの程度なのか、ということがまだよくわからないままに、あらゆる可能性を考えて、かつ既定の大学暦を遵守しつつ、新学年を準備しなければならないという未曾有の困難に直面しているということだけである。
 九月から平常通りに授業ができる可能性はかぎりなくゼロに近いが、その前提で時間割を組み、教室確保をしておかなければならない。ところが、もっとも可能性が高いオンラインと教室での対面授業のハイブリッド方式になった場合、平常通りにはもちろん教室は使えない。授業のタイプ、教室のサイズ、登録学生の数その他の多数のパラメーターを考慮して、オンライン授業と教室授業との組み合わせを考えなくてはならない。これが実に難題なのである。
 まず、教室確保の問題である。
 ハイブリッド方式にするということは、一回の教室授業の学生数を教室のサイズに応じて十分にフィジカル・ディスタンスが確保ように減らし、それ以外の学生はその授業に各自オンラインで参加するという形になることを意味する。その次の回は学生を入れ替える。だが、この方式は二グループに分ければ、教室が使えるという前提に立っている。ところが、話はそんなに簡単ではない。
 例えば、五〇名の登録学生がいて、それを二グループに分けて二五名ずつにしても、予め予約した教室ではフィジカル・ディスタンスが確保できなければ、その教室は使えない。別のもっと大きな教室にしなくてはならない。ところが、この問題はすべての学部で発生する問題であり、それでなくても普段からキャンパス中の建物の教室はフル稼働に近い状態だから、適切な教室がすべての学科に十分に確保できる可能性はほぼゼロに等しい。教室はそのままで、二グループではなく三グループに分けることももちろんできるが、そうなると教室での授業は三回に一回の割合にあり、学期は十二週であるから、各グループわずか四回しか教室授業に参加できないことになる。
 今日の会議で学部長から大学の方針として通達されたことは、ハイブリッド方式の場合、一年生の授業により多くの教室授業を割り当て、学年が上がるにしたがってオンラインを多くするということである。その意図は私もよくわかる。これは、しかし、フィジカル・ディスタンスの確保の点から言うと、ほとんど矛盾した方針である。なぜなら、日本の大学と違って、フランスは一年生の数が圧倒的に多く、学年上がるにしたがって「淘汰」されていくからである。つまり、一年生の授業がフィジカル・ディスタンスの確保が一番困難なのだ。小グループに分けるしかないが、それは同じ授業の回数の増加を意味し、それを受け持つだけの教員の確保が必要だが、これも極めて難しい。
 他方、ハイブリッド方式に応じて授業計画も組み立て直さなくてはならない。教室授業のみ或いはオンライン授業のみの場合よりも、組み立てが複雑になり、教師の負担が増えることは間違いない。学生たちも隔週で教室とオンラインとなると一定のリズムで学習することが難しくなる。ただ、この点は、慣れの問題でもある。それに、ハイブリッド方式の教育効果の上でのメリットもあるかも知れない。
 いっそのこと全部オンラインのほうが「楽」ではあるが、それでは学生たちがストラスブールに来る意味がなくなる。もしそうなれば、引っ越しを取りやめる学生もいるだろう。オンライン授業はいくら可能でも、ヴァーチャル空間だけでの大学でいくら「充実した」時間を過ごしても、それはもはや「キャンパスライフ」は言えないだろう。
 これから六月にかけて、感染状況とそれに対しての政府の方針の変化に応じて、大学の対応も変化する。それに応じて、学部、学科、学年、授業タイプそれぞれのレベルで、与えられた状況の中でよりよい問題解決策を考えていかなくてはならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


人類の文明が自ら招き寄せた感染爆発 ― 石弘之『感染症の世界史』を読む

2020-05-19 23:59:59 | 読游摘録

 本書の初版が刊行されたのが2014年(洋泉社)、加筆修正のうえ、角川ソフィア文庫に収録されたのが2018年である(こちらがその紹介頁)。ここ二ヶ月でもっとも読まれている本の一冊ではないかと思う。私は一昨日電子書籍版を入手して、今さっき読み終えた。
 最終章「今後、感染症との激戦が予想される地域は?」には、今回の新型コロナウイルスの感染爆発についてまさに予言的な一節があるのだが、そのことよりもこの本を興味深い一冊にしているのは、人類の歴史は感染症との戦いの歴史だと言っても過言でないことを豊富で多様な事例を挙げて素人にもわかるように説明してくれていることだ。
 著者は、感染症学の専門家ではなく、もとはジャーナリストだが、世界各地で様々な感染症に自ら罹患しており、その現場レポート的な部分は読ませる。本書は、環境史研究者としての著者がその立場から「この目に見えない広大な微生物の宇宙」を私たちに垣間見せてくれる。
 各感染症の記述の学術的な信頼性については、私はまったく判断できない。有名人の罹患者リストなど、冗長であらずもがなの箇所もなくはない。しかし、本書によって、感染症の拡大が人類の文明の進歩と不可分の関係にあることはよくわかった。
 「まえがき」と「あとがきき」からそれぞれ一箇所ずつ摘録しておこう。

 私たちは、過去に繰り返されてきた感染症の大流行から生き残った、「幸運な先祖」の子孫である。そのうえ、上下水道の整備、医学の発達、医療施設や制度の普及、栄養の向上など、さまざまな対抗手段によって感染症と戦ってきた。それでも感染症は収まらない。私たちが忘れていたのは、感染症の原因となる微生物も、四〇億年前からずっと途切れることなくつづいてきた「幸運な先祖」の子孫ということだ。人間が免疫力を高め、防疫体制を強化すれば、微生物もそれに対抗する手段を身につけてきた。
 人間が次々と打つ手は、微生物からみれば生存が脅かされる重大な危機である。人が病気と必死に戦うように、彼らもまた薬剤に対する耐性を獲得し、強い毒性を持つ系統に入れ替わって戦っているのだ。まさに「軍拡競争」である。

 人は病気の流行を招きよせるような環境をつくってきたが、今後ますます流行の危険は高まるだろう。というのも、日本をはじめ世界各国が、歴史上例のない人口の集中化と高齢化の道を突っ走っているからだ。両者は感染症流行の温床である。
 これから感染症流行のさらなる「二次災害化」も進むと予感している。阪神・淡路大震災でも東日本大震災でも、「震災関連死」の患者が高齢者に集中した。とくに、肺炎による死者が目立った。避難所の環境や過密がその主な原因だ。日本の将来への不安が高まっている。末期的症状になりつつある少子高齢化のみならず、近い将来に襲来するはずの超弩級の大地震、荒々しさを増す異常気象……。凶悪な感染症の大流行もそのひとつにあげておく必要がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


無限に変化する風景画帖の中を毎日歩く ― 歩行礼賛

2020-05-18 23:59:59 | 雑感

 外出自粛令の段階的解除が始まって一週間が過ぎました。その以前と以後で私自身の生活にはほとんど変化がありません。先日話題にしたように、散髪に行けたことは本当に嬉しかったですが、それを除けば、何も特別なことはありません。買い物の回数が増えたわけでも外出の機会が増えたわけでもありません。相変わらず半引きこもり生活を、嬉々としてではもちろんありませんが、淡々と送っております。
 ウォーキングもそのまま続けております。外出自粛令の有無に関係なく、規則的に運動することは健康維持のために必要です。そのために十年以上に渡って続けてきた水泳が当分できない以上、何かそれに替わる運動をと思って始めたウォーキングなのですから、それをやめる理由はありません。
 それにウォーキングは結構楽しくもあるのですよ。ストラスブールには、歩いていて気持ちの良い場所がいたるところにあります。嘆賞すべき街並みや風景にも事欠きません。それは観光地だからではありません。普通の街並みが美しいのです。私が住んでいる郊外には、半時間も歩けば、これが市内かと疑われるような長閑な田園風景が広がります。それに、同じコースを歩いていても、風景にはその日その日で光と影に微妙な変化があります。歩いているからこそそれに気づくことができます。
 歩きながら眺めることで、「同じ」風景が無限のヴァリエーションとともに立ち現れてきます。その風景の中を私は歩いています。ですから、ただ「眺める」というだけではなく、その風景の動的なヴァリエーションに参与しています。ちょっと格好をつけて、メルロ=ポンティ風な言葉遣いをすれば、風景に自らの身体を与えることで、風景から無限の変化を引き出している、と言ってもいいかも知れません。
 毎日同じ風景画帖を紐解いているのに、日毎にその中の画が違って見えます。いくら頁をめくっても終わりが来ない、そんな画帖の中を私は毎日歩いています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


外出自粛令段階的解除開始後最初の週末の森の光景

2020-05-17 23:59:59 | 雑感

 今日はまさに五月晴れの一日でした。午後、自宅から自転車で15分ほどのところにあるロベルソーの森に久しぶりに行ってみました。ライン川のほとりに流れに沿って縦長に広がる五百ヘクタールほどのさして大きくはない森ですが、いたるところに樹齢百年を超す巨木が鬱蒼と茂っており、その下を自転車で走るのはとても気持ちよく、かつては毎週のように自転車で走り回っていました。
 森の入り口にあるプータレス城の周りの公園はいまだに柵で閉鎖されたままでしたが、森の中の自転車道兼散歩道は開放されていました。外出自粛令中確かめに来たわけではなかったので、十一日月曜日から再び開放されたのか、外出自粛令中も森には出入りができたのかどうかはわかりません。
 予想はしていたのですが、驚くほどの人出でした。もちろんパリ近郊の森とは比較になりませんが、ストラスブール市民にとっての憩いの場の一つであるこの森としては、いくら日曜日とはいえ、これほどの人が同時に森の中を散歩していることは、おそらく過去にはなかったのではないでしょうか。特に森の入り口にある駐車場から遠からぬあたりには、小さな子供を連れた家族が多く、その脇を自転車で追い抜くとき、あるいは向こうから来る家族連れとすれ違うときは、気をつけて速度を落とさなければならないほどでした。
 居住する県から百キロ以内と移動空間がまだ制限されていますが、アルザス地方を例に取れば、バー・ラン県とオー・ラン県の間であれば、百キロ以内にほぼすべての地域が収まりますから、許可証を持参しなくても車その他の交通手段で自由に往来・移動ができます。きっと観光で人気のある村や山などには多くの人たちが繰り出したことでしょう。
 八週間も息の詰まるような外出自粛令下にあったのですから、この週末に人々が一気に外に繰り出したのも無理からぬことだと思います。公共交通機関ではマスク着用が義務、一部のお店でもマスクを着用していないと入店を拒否されます(昨日購入したPCを取りに行ったFNACがそうでした)が、今日森の中をして歩いている人たちの中でマスクをいるのは少数でした。私もしませんでした。自転車で走っているかぎり、歩いている人たちの1メートル以内に接近することはそもそも危険ですからまずありませんし、森の奥まで行けば、ときどきすれ違う人があってもお互いに十分な距離を取ることができましたから、感染のおそれはまずなかったと言っていいでしょう。
 それにしても平時には感じない一種異様な「賑わい」ではありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


新しく購入したパソコンを使いながらこれからの労働形態・教育形態について愚考する

2020-05-16 23:59:59 | 雑感

 この記事は今日入手したばかりの新しいノート型パソコンで書いている。最新の HP Spectre x360 Convertible 13 で、スピーカをキーボード上方から底部両脇に移動させたことで昨年購入した同機種よりも、更にコンパクトかつ軽量になっている。処理速度も格段に向上しているし、バッテリー駆動時間も長くなっている。安い買い物ではなかったが、いつも複数台のパソコンと iPad と iPhone とを同時に稼働させながら仕事しているから、それらすべてが快適な操作性をもたらしてくれることがストレスなく仕事するためにはどうしても必要だ。
 しかし、それは昨日の記事で詳述したようなトラブルの可能性をつねに抱えながら仕事しているということでもあり、その発生に即時対処できるだけの備えが必要だということでもある。テレワークは、それだけ機械への依存度を高め、職場であれば容易にスタッフの協力を得て解決できる問題も自分一人で処理しなくてはならない。
 企業であれば、テレワークに必要な機材は社員に無償で提供されるであろう。日本の諸大学の対処の仕方は一様ではないようだが、今後、オンライン授業が主流になれば、そのために必要な機材は各教員に無償で提供されるか、あるいは機材購入費用は大学で負担すべきであるが、それがどこまで可能なのか私にはわからない。フランスの大学の場合、まずほとんど何も期待できない。そもそも個人研究費さえ存在しない国なのだから。各教員への経済的に有意味な援助は、はっきり言おう、金輪際期待できない。
 しかし、より質の高いオンライン授業を行うには、内容の充実という問題以前に、あるいはそれとは別に、発信する側の機材がまず十分に高機能であるという条件が満たされていなければならない。例えば、パソコン内臓のカメラやマイクより高性能なものを使うことが望ましいだろう。今後数ヶ月のうちに、オンライン授業用のさまざまな製品やアプリが開発されていくと思われる。それはそれで経済をいくらかは活性化させると期待していいのだろうか。
 他方、いくら発信側を充実させても、受け手である学生の側でそれを十分に享受するだけの接続環境を公平に提供するのは遥かに難しい問題だ。ここで大学間格差、学生間格差、分野間格差が顕著に現れるだろう。そして、ポスト・コロナの世界に「ついていけない」教員と大学の「淘汰」はもはや不可避であろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


一喜一憂の一日(後編)

2020-05-15 23:59:59 | 雑感

 さて、昨日予告しましたとおり、昨日起こった一喜一憂の一憂の方についてお話いたします。 
 外出制限解除が始まった今週月曜日から遡ること十日ほどのことだったでしょうか。メイン機として使っているノート型パソコンを立ち上げると、数十秒間画面全体が震えるような症状が現れました。放っておくと収まるのですが、ちょっと嫌な予感がしました。この症状はその後出たり出なかったりで、特に操作上には障害が発生しませんでした。 
 その数日後、起動するとスクリーンのやや上方に一本横線が入るようになりました。薄い線なのでさほど気にはならないのですが、それがスクリーンそのもののトラブルなのか、内部基盤の問題なのか、あるいは電気的な問題なのか、素人の私にはわかりませんでした。ただ、ケーブルで繋いでテレビ画面にパソコンの画面を投射して見ると、線は現れていませんでした。 
 放っておくと症状が悪化するかもしれないと気にしつつも、修理に出そうにも店が閉まっているのだからどうしようもありませんでした。今週に入って、問題のパソコンを購入した店も再開され、行かなければと思っていたのですが、まずは自分でできることは試してからにしようと、ネットで検索してみると、画面に線が入るという症状はけっこう頻繁に起こることのようで、たくさんのサイトがヒットしました。しかし、原因は多様なようで、いろいろ試してみなければならず、それでも症状が解消しない場合は、結局、修理に出すしかないこともわかりました。 
 それであれこれ試してみようとしたのが昨日の昼だったのです。散髪と買い物から気分も軽く帰ってきて、さてやろうかと、パソコンを立ち上げようとしたら、「問題が発生しました。その解消のために自動的に再起動します」という表示が現れたのです。しかも、画面の線の下方全体の解像度が明らかに落ちているのです。再起動されましたが、「問題を解決することができませんでした」という表示が現れ、トラブルシューティングのための別の画面に移動するように指示がでました。そこに示してあることはすべて試しましたが、問題は解消しないどころが、頻繁に自動再起動が繰り返され、そのたびに画面の解像度が落ちていきました。数時間おいて再度起動してみたら、画面の下三分の二は真っ黒でした。 
 これはもう手に負えない。修理出すしかないと諦め、電源を落としました。まだ買って一年一ヶ月です。幸い保証期間内ですが、修理に出せば、通常でも数週間、この時期、さらに時間がかるでしょう。 
 初期症状から重症に陥るまで、二週間足らずのできごとでした。原因はわかりません。縁起でもなくかつ今時にあって不謹慎なたとえですが、まさにまたたくまにウイルスに侵されてしまったかのようです。 
 日頃から二台のパソコンを同時に使っているので、さしあたりはその第二号機で凌げますが、一台ではどうしても仕事が遅くなります。そこで仕方なしに、お蔵入りしていた古い機種を引っ張り出してきて、余計なソフトを削除し、デフラグをおこない、クリーナーソフトで清掃し、できるだけ軽くして使っています。 
 テレワークにとってパソコンは必需品です。ところが、このようなトラブルがいつ発生するともかぎりません。それに即対処するには複数台所有している必要があります。しかし、古い機種はやはり遅いし使い勝手がよくありません。修理に出すパソコンが修繕可能なのかもまだわかりません。 
 少し迷いましたが、もう一台買うことにし、すぐにネットで注文しました。まったく予想外の出費です。その額はおよそこの夏の一時帰国のためのチケット代に相当します。この夏の帰国は諦めざるを得ないので、そのチケット代で買ったということにして、この夏はどこにも行かずに、自宅で研究に勤しむことにします。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


一喜一憂の一日(前編)

2020-05-14 11:59:59 | 雑感

 今日はいいことが一つととてもガックリ来ることが一つありました。まさに一喜一憂の一日でした。今日の記事では、一喜の方だけ書きます。一憂のほうについては、明日、もう少し気持ちの整理がついてから書きます。
 火曜日から再開しているはずのいきつけの Salon de coiffure に朝九時の営業開始時間と同時に予約のために電話しました。再開以来予約依頼が殺到しているであろうと予想されたので、いつなら予約できますかと聞くと、しばらく予約帖をめくる音が電話越しに聞こえるので、今週が無理なら来週でもいいというと、また少し間があって、今日の午前十一時に来てくれと言います。
 意外にもこんなに都合よく予約が取れて、気を良くして予約時刻の五分ほど前に店に着くと、一人マダムが先客としていましたが、カットではないらしく、椅子に座ったまま雑誌を眺めていました。主人一人でやっている店ですが、それで私を同じ時間帯に入れてくれたのだとわかりました。すぐに私のカットに取り掛かってくれました。いつものように短くしてほしいと頼むと、マスクに防護服という出立ちながら、いつも通り手際よく三十分ほどで綺麗サッパリ短くしてくれました。カットの間、こちらもマスクはしたままででしたが、耳周りともみあげをカットするときだけ、マスクのゴムを片方だけ外し、自分の手でマスクの隅をおさえているように頼まれました。
 昨年大晦日以来の散髪でした。だいたいいつも二ヶ月に一回のペースなのですが、三月に入ってちょっとぐずぐずしていたら外出制限令が発効し、美容院・理髪店もすべて閉まってしまいました。最初は八週間も続くとは思っていなかったので、さして気にしていなかったのですが、四月に入るとだんだん髪の毛が鬱陶しくなってきて、いったいいつになったら行けるのだろうと気になり始めました。四月末に五月十一日から美容院・理髪店も再開されるとわかりましたが、すぐに散髪に行きたいと思っている人は、特に男性に多く、再開と同時に予約が殺到するであろうとテレビのニュースでも予想していました。それだけに電話を入れたその日に、しかも二時間後と、まったく普段と同じように予約できて、ちょっと拍子抜けしたくらいです。
 散髪した直後は毎回少し晴れ晴れとした気分になるものですが、今回ほど散髪が嬉しかったことは過去にありませんでした。
 その足で買い物も済ませ、自宅に戻り、さて仕事に取り掛かろうと、いつも使っているノート型パソコンを起動しようとしました。
 ところが……、この続きは明日。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


いったいなんのために頑張っているのか ― 居場所なき「非国民」の悲観主義的な独り言

2020-05-13 23:59:59 | 雑感

 以下、この非常時にあって不謹慎きわまりない「非国民的な」独り言を呟くことをどうかお許しください。
 フェイスブックを通じて、各大学で遠隔授業のためにまさに獅子奮迅のお働き、あるいは/そして、それぞれの場所で孤軍奮闘されている先生方の貴重なご報告を読ませていただきながら、未知の環境への適応力の高さ、柔軟な発想力、未曾有の困難を乗り越えていこうとする強い意志、コロナウイルス禍によってむしろ荷電された教育への情熱、学生たちへの深い愛情には、本当に心動かされます。他方、様々な困難に出遭い、多大なご苦労・ご心労に押し拉がれていらっしゃる先生方もいらっしゃることに、同業者として心を痛めております。
 数カ月後、遅くとも来年には、この困難な時期に生まれた数々の優れたアイデアを発展・拡充し、それらに技術的・物理的・経済的裏付けを与えることで、大学教育(だけではないでしょう)の形態が一新されることでしょう。それは「令和維新」と未来の歴史家たちが名づけるほどの革命的な変革をもたらすことになるのかも知れないと、来たるべきポスト・コロナの世界への大いなる期待とそれと同じくらい大きな戦慄を今この時抱いている次第です。
 ただ、度し難い捻くれ者である私は、ついこう独りごつことを自分に禁じることができないでいます。
 いったいなんのために頑張っているのだろうか。非常時だからと、こんなふうにとにかく頑張ってしまうことは、もしかしたら、今回のコロナウイルス禍の比ではない何かとんでもなく禍々しい世界への道を大慌てでそれと知らずに自ら準備してしまっていることにならないだろうか。
 もし二十年前に同じようなパンデミックが起こっていたら、教育機関はほぼすべて麻痺状態に陥っていたでしょう。学校は閉鎖、授業はすべて中止、連絡のつかない学生が多数発生、学校当局者同士であってもお互いに思うように連絡もつかない、偽情報が飛び交って大混乱といった事態に陥っていたかも知れません。目覚ましい通信技術の発達のおかげで、私たちは、現在、そのような制御不可能なパニックには陥らずに、「教育の継続性」をなんとか維持すべく奮闘できています。
 しかし、目の前の未曾有の問題の解決にすべての精力と知力を注いでしまうことで、私たちは本当に考えるべき問題をもっと広く深く総合的な視野と射程の長い歴史認識の中で考える時間を奪われていることも忘れるわけにはいきません。
 もちろん、継続性の維持は、単に教育の分野だけでなく、その他の分野、とりわけ司法・行政・立法・経済においては不可欠なのは言うまでもありません。
 それでも私はこう考えてしまうのです。
 もし人類がこれから先も存続していくことを望むのならば、目の前の継続性を金科玉条とするよりも、これまでの世界とは違ったこれからの世界はどのような世界であるべきなのか、一部のお偉い識者たちに考えてもらうのではなく、すべての人がそれぞれの場所でじっくりと考えなくてはいけないのではないか。継続性の維持と性急な自粛解除は、私たちからその考える時間を奪ってしまうことにはならないか。そのことがもたらす「災禍」は人類の未来にとって致命的かも知れない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


半引きこもり生活を続けるK先生宅訪問記 ―「師の謦咳に接することなくして学成り立たず」

2020-05-12 18:29:03 | 雑感

 偏屈者のK先生は、ここ何十年と半引きこもりの生活をフランス極東のライン川のほとりの街で続けている。万巻の書物の谷間に埋もれるようにして、日夜読書に勤しみ飽きることなく、先生自身以外は誰も読まない思索日記を営々と書き続けている。
 病的に非社交的な性格がわざわいして、先生の驚嘆すべき博覧強記を知る人はこの世界にはほとんどいない。もちろんあの世にもいない。
 外出するのは、せいぜい半月に一度、使い古して草臥れた登山用リュックサックを背負って食料品の買い出しにしぶしぶ出かけるくらいである。街外れにある先生の陋屋には、ネット環境などもちろんない。パソコンもスマートフォンもタブレットもない。それどころか、テレビもないし、ラジオさえない。新聞もとっていない。つまり外部の情報を入手する手段をまったく所有していないのである。
 私はK先生より一回り年下だが、先生が大学生だった頃からよく知っており、もう半世紀以上の付き合いである。先生のほとんど唯一の良き理解者をもって任ずる者である。
 三月十六日、外出制限令発効の前日、先生はおそらく制限令のことを知らないであろう、いや、そもそも新型コロナウイルス感染拡大のことさえ知らないであろうからと、心配になって自宅を訪ねた。
 「明日からカクカクシカジカの理由で自宅からの外出が厳しく制限されます。例外的に許可されている外出理由を記した証明書を携帯しないと外出できません」と簡単に事情を説明すると、案の定、「confinement ? 何じゃそれは」とまったく事態を理解していない反応が返ってきた。
 「余(先生は漱石の愛読者で、自分のことを話すときも自称詞として常に「余」を使う)には関係ないではないか。そもそも外出しないのであるから。それに、肉体をある場所の閉じ込める(confiner)ことはできても、それは魂が精神世界をその果て(confins)まで遊行することを妨げるものではない」と一向に気にする様子がない。
 「でも、先生、食料品の買い物はどうしますか。それにも例外的外出許可が必要なのですよ。」
 「それもまったくノー・プロブレムじゃ。いつ大災害が起こって食品流通が滞っても、一年は何も買わなくても食べていけるようにと、地下倉庫に充分な保存食が保管してあるのだ。それに余は一日一食、しかも少食であるから、少し食べる量を減らせば、一年半、いや二年は余裕で籠城できる」とちょっと自慢げな口ぶりで、まったく動じる気配がない。
 「学校もすべて閉鎖になり、授業はすべて遠隔授業になりました。大学も同様です。今日の午後、第一回目のオンライン授業をやってきましたよ」と説明しかけたが、これは先生には無意味であることにすぐに気づいた。先生はインターネットの何たるかさえ知らないのであるから。
 それでも、教室での授業ができなくなったことは理解したようで、「それは由々しき事態であるな」とはじめて深刻そうな顔をした。「どうしてそう思われるのですか」と聞くと、「師の謦咳に接することなくして学成り立たず」と厳かに宣われた。
 「教育内容の伝達手段など、どうとでもなる。人文学など書物を読めばほとんどそれで済む。しかし、師に直接お目にかかり、その肉声を親しく聴くことなしに、学問への情熱の火種が弟子に受け継がれることはない。」
 K先生の言うことはいつも大げさである。話半分、いや、十分の一くらいに聞いておかないといけない。それにしても、先生の家からの帰り道にこう思った。
 この非常時に乗じて教育の大半をオンライン方式に一気に移行させることは、学問教育の死の到来を加速させることになるのかも知れないと。