内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

夏休み日記(19)― 旧友来たりて暫し歓談す

2019-08-21 23:59:59 | 雑感

 今日の午後、三十数年来の旧友が折角の休日に訪ねてきてくれた。前回会ったのは、2014年末に私の母が亡くなった後、彼が家族全員で弔問に来てくれた2015年正月だったから、今回の再会は四年半ぶりのことであった。妹夫婦とも旧知の仲であり、1996年9月に私たち家族がフランスへ渡航した後の数年間、私たちが住んでいた実家の地階に、私たちが飼っていた三匹の猫付きで、つまりその世話をお願いするという条件付きで、代わりに家族で住んでもらったこともあり、母とはそれこそ家族ぐるみの付き合いであった。私がフランスで暮らし始めてからは、そうそう帰国するわけにもいかず、旧友に会うのも数年に一回となってしまったが、それでも会えば、たちまち昔のようになんのわだかまりもなく楽しく話せるのが旧友のありがたいところである。私が七歳上ということもあり、彼が高校三年生ときは受験勉強を見てあげたりもした。彼が社会人になってからも、よく一緒に遊び、飲んだものだった。久しぶりに会ったからといって、なにか特別な話をするわけでもなく、仕事上のエピソードとか、趣味の話とか、共通の友人・知人の近況とかを、面白おかしく、あるいはちょっとしんみりと話すだけのことだが、そういう時間を心地よく過ごせたことをとても嬉しく思う。次回の私の帰国時の再会を約して、自宅へと帰る彼の車を妹夫婦と三人で見送った。












夏休み日記(18)― 関係の不均衡を産出していくギヴン・アンド・ギビング

2019-08-20 19:09:32 | 哲学

 今回の夏の一時帰国もあと三日を残すばかりとなった。9月2日からの新学年度のことがもう気になりだしてはいるが、その本格的な準備は来週月曜日からにして、それまでにやっておきたいことを今は優先している。
 9月2日の発表については、その骨子はすでに出来上がっている。テレビ会議を使って日仏を繋ぐセミナーだから、当日の技術的なアクシデントも想定しておかなくてはならない。原稿も状況に応じて縮約しやすいように作成しておく必要がある。その日の午後には学科の新入生向けのガイダンスがあるから、万が一セミナーが予定より大幅に遅れた場合、私の発表はカットということもまったくありえない話ではない。まあ、そうなったらそうなったで仕方ない。
 さて、その発表原稿の隠し味の四番目は、加藤典洋の『人類が永遠に続くのではないとしたら』(新潮社、2014年)から抽出したエキスである。本書は、福島原発事故が著者に与えた衝撃を契機として構想された。その内容は、重くかつ重大で、軽々に論ずることはできない。
 本書が扱っているのは、原発事故直後に著者が発表した短い文章の中に挙げられたフクシマ以後の三つの課題のうちの三番目、地球規模のエネルギー問題への具体的・現実的な対処について考え抜く上で、「地球と社会の持続可能なありようを支える、今後我々が模索すべきあり方、考え方、哲学とはどのようなものか」という問題である。この問題に、著者は、「有限性に正面から向きあい、それを肯定する思想とはどのようなものか、という問いを手がかりに、取り組んでいる。」(416頁)
 内容豊かな本書を要約することは難しい。最終章「12 リスクと贈与とよわい欲望」に示された著者の提言の一部を引用する。そこに込められた希望を私は共有したいと思う。

新たな関係の創出のためには、リスクが冒されなければならない。

社会のリスクを克服し、新たな関係を作り出すために、最初の一歩を踏み出すという、また別のリスクが必要なのだ。

それは、たとえば、何の見返りもないかもしれないことに、見返りを期待せずに、一方的に交換をもちかけることである。

そのリスクの別の名前は、贈与である。ふつうそのような一方的で絶望的な、リスクそのものであるような交換のもちかけは、贈与と呼ばれているからだ。

そこにあるのは、ギブ・アンド・テイク(give and take)のやりとりではない。それは、システム内部では、関係の不均衡を均衡に戻し、一つの閉鎖回路としての関係を安定化させる動きをもってしまう。昔、私の知人が、貧しい学生のときにほとんど見知らぬ人から数百万円の贈与を受けたが、その人は、自分へのお返しはいらない。その代わり、もし可能な境遇になったら、自分と同じことをまた別の若い人にしなさい、といったそうだ。それで、私の知人は同じことをしている。これは、ギブン・アンド・ギビング(given and giving)のやりとり、関係の不均衡をつねに産出していく動きである。贈与されたものが、贈与する。そこから関係の不均衡が生じるが、それは言葉を換えれば、関係が創出されるということである。













夏休み日記(17)― 発表原稿の隠し味(その三)「限りなく柔軟なコスモス」をもし信じられたら

2019-08-19 23:59:59 | 哲学

 三番目の隠し味は、井筒俊彦の『コスモスとアンチコスモス ― 東洋哲学のために ―』(岩波文庫、2019年)から引き出すつもりだった。だが、今になって、それを躊躇っている。というのも、今回読み直してみて、こういう壮大なスケールの言説に今いったいどんな意味がありうるのだろうかとすっかり懐疑的になってしまっている自分を見出したからである。
 本書所収の「コスモスとアンチコスモス ― 東洋哲学の立場から ―」は1986年の公開講演筆録が基になっている。もしその当時に読んでいたら、私はその内容に熱狂していたかも知れない。しかし、今は、西洋哲学と東洋哲学とを対比するその図式に、たとえそれが方法論的に裏付けられ、多数の原典に基づいたものであれ、とても同調する気になれず、思わず引いてしまうのだ。

 このようなコスモス観(=自分がその中で生きているコスモスは、実体的に凝固した無数の事物からなる一つの実体体系であると考えるコスモス観)に対して、東洋哲学は、おそらくこう主張するだろうと思います。たしかに、「有」がどこまでも「有」であるのであれば、そういうことになるでもあろう。「有」が究極においては「無」であり、経験世界で我々の出合うすべてのものが、実は「無」を内に抱く存在者(「無」的「有」)であり、要するに絶対無分節者がそのまま意味的に分節されたものであることを我々が悟る時、そこに自由への「開け」ができる。その時、世界(コスモス的存在秩序)は、実体的に凝り固まった、動きのとれない構造体であることをやめて、無限に開け行く自由の空間となる、と。なぜなら、一々のものが、それぞれ意味の結晶であり、そして意味なるものが人間意識の深層に淵源する柔軟な存在分節の型であるとすれば、「無」を体験することによって一度徹底的に解体され、そこから甦った新しい主体性―一定の分節体系に縛りつけられない融通無礙な意識、「柔軟心」―に対応して、限りなく柔軟なコスモス(限りなく内的組み替えを許すダイナミックな秩序構造)が、おのずからそこに拓けてくるであろうから、であります。(271頁)

 こういう言説を批判したいのではない。このような美しい文章を書かせる高貴な精神に讃仰の念さえ抱く。同様に深遠な思想を抱く高潔な方々もいらっしゃることであろう。私はといえば、しかし、「無限に開け行く自由の空間」とか「融通無礙な意識」とか「限りなく柔軟なコスモス」とかの表現を見ると、それらが理想的な何事かを示すものであればあるほど、とても虚しい気持ちになってしまうのです。












夏休み日記(16)― 発表原稿の隠し味(その二)「遠い彼方と共振する性能」

2019-08-18 16:02:05 | 哲学

 発表原稿の隠し味の第二は、三木成夫の『生命とリズム』(河出文庫、2013年)から抽出されたものである。本書には、生命を司るさまざまなリズムと宇宙を統べるさまざまなリズムとの関係についてとても示唆に富んだ考察が平易な言葉で述べられている。初出は、雑誌に掲載された短い論文や講演原稿あるいは要旨からなり、それらが「Ⅰ 生命とはなにか」「Ⅱ からだと健康」「Ⅲ 先人に学ぶ」「Ⅳ 生命形態学への道」の四つの章に分けられている。以下は、第一章の「人間生命の誕生」と題された文章の「人間の生命形態―植物・動物との比較」という小見出しが付けられた節からの引用である。

合成能力の備わった植物が植わったままで生を営むのに対し、この能力に“欠”けた動物は、“動”き廻って草木の実りを求めることになる。この文字通り“欲動”的な生きものの動物に「運動と感覚」という双極の機能が、光合成能の代償として備わったことは、これまた自然のなりゆきと言わねばならないであろう。(27ー28頁)

 植物はしたがって、完全に無感覚・無運動の、言ってみれば覚醒のない熟睡の生涯を永遠に繰り返してゆく生きものということになるのであるが、この真夏の太陽も見えない、春の嵐も肌に感ずることのない生物が、しからばいかにして歳月の移り変わりを知ることになるのであろうか? それはこの植物を形成するひとつひとつの細胞原形質に「遠い彼方」と共振する性能が備わっているから、と説明するよりないであろう。巨視的に見ればこの原形質の母胎は地球であり、さらに地球の母胎は太陽でなければならない。
 したがって、この原形質の生のリズムが、例えば太陽の黒点のそれに共振することがあるとしてもなんら不思議とするにはあたらないであろう。それは心臓から切り離された一個の心筋細胞が培養液の中でかつての心拍のリズムをもののみごとに復活させるのと少しも変わらないのであるから。細胞原形質には、遠くを見る目玉のない代わりに、そうした「遠受容」の性能が備わっていたことになる。これを生物の持つ「観得」の性能と呼ぶ。植物はこのおかげで、自らの生のリズムを宇宙のそれに参画させる。われわれはその成長繁茂と開花結実の二つの相の明らかな交替が日月星辰の波動と共鳴しあって一分の狂いもないのを見るであろう。こうして植物の生はこの大自然を彩る鮮やかな絵模様と化す。
 さて、これが動物ではどのようになっているのか? その原形質もまた宇宙のリズムに乗って自らの食と性を営んでゆくのであるが、ここではさらに、その時々の原形質の欠乏を満たす糧を、それがたとい五感の及ばぬ遥か彼方のものであっても、それを的確に観得し、それに向かって運動を起こす。つまり成長繁茂・開花結実という生過程にのみ結ばれた植物の「観得」の性能は、動物ではさらに餌と異性に向かう個体運動(locomotion)にまで結ばれることとなる。かれらが日月星辰のリズムに乗って、ある時は大空を渡り、ある時は急流を遡り、それぞれ彼方の見えぬ「食と性」の目標に向かってあたかも生磁気に牽きよせられるがごとくに進んでゆく──いわゆる“鳥の渡り”とか“魚の産卵”に見られる動物の「本能」とは、まさにこの「遠観得」の性能に依存するものであることがここで判明した。
 さて、動物の観得はこれだけではない。食と性の目標がやがて運動器とともに開発された感覚器の窓を通して直接に観得されることとなり、こうした感覚・運動を営むいわば「肉の体」の出現によって動物界ではひとつの意味を持った「外界」が種ごとに形成されることとなるのであるが、それは人間にいたって一挙に無限の「世界」にまで拡大される。かれらの五感を通して入ってくるもの、それは食と性に関係したものだけではない。そこでは、森羅万象のひとつひとつがそれぞれの“すがたかたち”を表して人びとの「心情」を揺り動かすのであるが、実はその時、五感に差し込むそれら諸形象の中に、われわれは、あの植物原形質が観得した「遠」の“おもかげ”を現実に見出すことができるのである。(28-30頁)

 長い引用になってしまったが、その中に出てくる「遠受容」「観得」「すがたかたち」「おもかげ」などの言葉にはとても豊かな生命思想が包含されている。












夏休み日記(15)― 発表原稿の隠し味(その一)「実在はリズミカルである」

2019-08-17 17:44:34 | 哲学

 昨日の記事で話題にしたセミナーでの発表の中で援用されるのはジルベール・シモンドンの技術の哲学であり、引用されるテキストは Du mode d’existence des objets techniquesL'individuation à la lumière des notions de forme et d'information とに限定される。しかし、発表原稿には「隠し味」として少量加えられているいくつかの「エキス」がある。それらはいくつかの互いにまるで異なったテキストから抽出されたものである。それらは、最後に取り上げるテキストを別とすれば、およそ発表内容とは関わりのないテーマを扱っている。しかし、発表する本人としては、それらをそれらとしては識別されない仕方で原稿にそっと溶け込ませることによって、発表内容にいくらかでも深みのある味を出したいと願っている。これらの「隠し味」を今日から一つ一つ紹介していこうと思う。
 その第一は、と言っても紹介順が一番という以上の意味はないが、唐木順三『良寛』(ちくま文庫、1989年、初版1971年)の初版の「あとがき」の次の一節である。

良寛は眼の人ではなく、むしろ耳の人であったと私は思う。その書や歌がすぐれてリズミカルなのもそこから来ていると私は思う。音や声や調べや響きに敏感なのもそこから来ている。いわば音楽的であることが良寛の特徴である。単に彼個人の特徴であるというばかりではなく、彼にとっては実在はリズミカルである。春夏秋冬のうつりかわりも、飛花も落葉も、生老病死も栄枯盛衰までもリズミカルである。そのリズムの交響の中に、彼は居る。優游、騰々として其の中にいる。(270頁)

 どうしてこれが「隠し味」になるかとお尋ねですか。それはさすがに申し上げられません。














夏休み日記(14)― 大地への回帰、あるいは回帰すべき有限の可塑的な場所を創出するための技術

2019-08-16 14:50:15 | 哲学

 9月2日にアルザス人文科学研究所 (MISHA) の研究プロジェクトの一環として、東京恵比寿の日仏会館でその第一回セミナーが開催される。前半は、日仏会館だけのプログラムだが、後半は、テレビ会議システムを使って、MISHA があるストラスブール大学のキャンパスと中継で結ぶ。私はストラスブールからこのプログラムに発表者の一人として参加する。
 研究プロジェクトのタイトルは、日本語では、「農への回帰、そして農の回帰:危機に対する食と農をめぐる思想と社会的イノベーションの循環に関する日欧比較研究」、今回のセミナーのテーマは、「農への回帰をめぐるユートピアとエコロジー思想-日欧比較研究」となっている。しかし、フランス語のタイトルは、それぞれ、« Retour à/de la Terre : Circulation des idées et innovations agrialimentaires en temps de crises. Comparaisons Europe-Japon » 、« Retours à la terre : pensées, utopies et écologies. Comparaisons Japon-Europe » となっている。「農」が « Terre » に対応している。ところが、このフランス語には、「土壌・農地・耕地・農耕生活」という意味だけでなく、「大地・(地上)世界・人類・現世」という意味もあり、特に大文字で « Terre » と書くときは、「地球」を意味する。つまり、「農」に比べて遥かに大きな意味の広がりを持った言葉なのだ。
 この研究プロジェクトの起点は「帰農」という概念にあり、その辞書的な定義は、「離村して都市へ流入した農民をその村へ帰住させ、または生業を失った武士や町人を助成して農耕に従わせること。帰田(きでん)。また、一般に都市での職務を辞して故郷に帰ること」「一般に、農村に戻って農業をいとなむこと」となっている。この概念を « retour à la terre » (「大地への回帰」)とフランス語に訳すことによって問題領域は一挙に拡張され、諸分野を横断する研究プロジェクトとなり、私のようなものにもお声が掛かったというわけである。
 私の発表は、回帰すべき「大地」はそもそもあるのか、という問いを立てることから始まる。大凡の理路は以下の通り。
 帰るべき場所としての原初の大地など、そもそも地上のどこにもないのではないか。とすれば、大地への回帰は、「もともとあった場所に戻ること」ではありえない。「大地」が自ずと再起(再帰)することもない。大地への回帰は、現在の都市生活を捨てて、ただ「故郷」へ帰るだけでは、持続的生活として成り立たないし、理念としても維持し得ない。大地へのノスタルジーは、大地への回帰の必要条件ではあり得ても、十分条件ではあり得ない。現実的で生産的な運動としての回帰は、満身創痍の地球上に、回帰すべき有限の可塑的な場所を、技術を媒介として創出し続けることによってのみ可能になるだろう。












夏休み日記(13)― 「風さへ暑き夏の小車」

2019-08-15 16:25:27 | 詩歌逍遥

ゆきなやむ牛の歩みにたつ塵の風さへ暑き夏の小車

 『玉葉集』中の「夏歌の中に」の詞書が添えられた藤原定家の一首。「行き悩む牛の歩みにつれて舞い上がる塵、その風までもが暑苦しい夏の日の牛車の歩みよ」(『日本古典文学全集』)の意。『歌苑連署事書』は、この歌を、「いと耳を驚かせリ[中略]かの藍田には玉も石もあれども、石をすてて玉をとり、麗水には金も砂もまじれども砂をのぞきて金をひろふなり[中略]捨つべきをば捨て、とるべきをばとるならひは今更いふべからず」、つまり、こういう詠みぶりは好ましくないと非難している。雅を事とする和歌にはふさわしくない題材だというのである。確かに、夏の暑苦しさなど、伝統的歌学が理想とする王朝美からほど遠い。実際、夏の暑さそのものを主題とした和歌は中古から中世にはきわめて乏しい。近世以降の俳諧、近代俳句において夏の暑さを詠んだ佳句が少なくないのと対照的だ。それだけに、行き悩む牛車と熱風に舞い上がる土埃というおよそ美の規範からかけ離れた素材を巧みに組み合わせ、炎暑を見事に形象化してみせた異色作として上掲歌は目を引く。













夏休み日記(12)― 晩夏はかつて美しい季節であった

2019-08-14 18:58:19 | 詩歌逍遥

 「晩夏」は、旧暦では六月(水無月)の異称であったが、現行歴では、「夏の終り」、おおよそ八月中旬からせいぜい同月末日までを指す語であったはずである。この語には、秋の気配が「目にはさやかに見えねども」、街を吹き抜ける風や夕空を流れる雲の形に感じられ、もうすぐ終わろうとする夏への愛惜が籠もる。ところが、少なく見積もってもここ十年の日本の夏期の天候を思い起こせば、この語をどの時期に適用すべきなのか戸惑ってしまう。九月に入っても厳しい暑さが続く。夏休みはすでに終わり、子どもたちや若者たちは学校へと戻る。もう夏は終わっていてしかるべきなのに、夏のごとき炎暑が相変わらず居座って私たちを苦しめる。早く涼しくなってくれ、暑さにはもううんざり、「晩夏」の悲しみなどに浸っている間など、どこにあるか。
 「晩夏はかつて美しい季節であつた」とは、塚本邦雄の『詞華美術館』(講談社文芸文庫、2017年)の中の言葉である。この一文の後に、ボードレールの『悪の華』の中の「秋の歌 Chant d’automne」の I の第一聯第二行「さらばみじかき夏の光よ Adieu, vive clarté de nos étés trop courts !」を引いて、「この詩句を唱えるとあのむごい夏の暑熱も一瞬透明な光に包まれて浄化されるやうな氣がする」と続けているが、今の日本の夏にはこの詩句の魔法ももはや効力を失ってしまっているのではないかと危惧される。いや、そうであればこそ、ものみな萎えさせる炎熱を一瞬にして冷却する詩句を創造することが詩人の仕事であり続けるのであろう。
 「言葉の夏は爽やかにみづみづしい。」(塚本邦雄前掲書)












夏休み日記(11)玉島の潭で鮎を釣る仙女たちの鮮烈な官能美 ― 私選万葉秀歌(16)

2019-08-13 14:43:18 | 詩歌逍遥

松浦川川の瀬光り鮎釣ると立たせる妹が裳の裾濡れぬ (巻第五・八五五)

 「松浦川に遊ぶ序」と題された序文をもった一連の歌(八五三から八六三までの十一首)の中の一首。この一連の歌は、「令和」がそこから取られた序文を持つ梅花の歌三十二首(八一五から八四六まで)とその補遺六首の直後に置かれている。大伴旅人作とされる。松浦川は、佐賀県東松浦郡の玉島川のこと。序文と一連の歌は、景勝の地、玉島の潭(ふち)に遊んだときの作だが、実景を詠んだものではなく、『遊仙窟』『文選』巻十九の情賦群などに学んだ神仙譚の結構。「余、たまさかに松浦の県に往きて逍遥し、玉島の潭に臨みて遊覧するに、たちまちに魚を釣る女子らに値(あ)ひぬ」と始まり、「時に、日は山の西に落ち、驪馬(りば)去なむとす。ついに懐抱を申べ、よりて詠歌を贈りて曰はく」と結ばれる序文は、玉島川を訪れた「蓬客」(さすらいの旅人)と神仙の娘子たちとの出逢いの場面を美麗な言葉で綴る。一連の歌は、蓬客と高貴なる神仙の女性たちとの対話や贈答の形を取る。
 上掲歌は、蓬客と娘子それぞれ一首ずつの挨拶の直後に、蓬客から娘子にさらに贈られた歌三首の第一首。「松浦川の川瀬はきらめき、鮎を釣ろうと立っておられるあなたの裳の裾が美しく濡れています」(伊藤博『萬葉集釋注』)の意。清流の川の瀬の光の煌めきの中、川中に鮎釣りに立つ仙女の裳の裾が濡れている。この鮮烈な官能美に水中を泳ぎ回る鮎のしなやかな動きのイメージが重なる夏の秀歌。












夏休み日記(10)世田谷区立駒留中学校夏のプール開放

2019-08-12 23:59:59 | 哲学

 今日から我が母校のこの夏のプール開放が始まりました。期間は8月25日(日)までの二週間。料金は二時間で240円。通い始めた2013年から昨年までずっと220円でした。これくらいの値上げは当然でしょう。こんな安さで開放してくれるのはありがたいことです。特に、私のように、世田谷区民でもなく、日本に住民票さえない者も自由に入れるのは嬉しいかぎりです。今回の滞在中は、一昨年と昨年のような小旅行の計画もなく、ずっと東京に居るので、23日までほぼ毎日通うつもりです。夏休み中にせいぜい体を鍛えて、9月からの新学年に備えたいと思います。初日の今日は、振替休日ということもあったのか、開場後10分ほどは例年のように私一人で悠々と泳げましたが、すぐに数人の男性が入ってきて、それに続いて親子連れも二組三組と増え、結構な賑わいとなりましたが、私は50分ほど休みなく泳いだところで、最初の休憩前に上がりました。これくらいが時間的にも体力的にもちょうどいいようです。