内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「柿本人麻呂の無常観(三)― 川面にいざよう滅亡したモノノフたちの幻影

2019-06-20 17:31:14 | 詩歌逍遥

 「もののふの八十宇治川」の歌も、題詞によれば、近江より上京の途次の作である。この歌も単なる叙景歌ではない。無常観を前提としたその隠喩的表現でもない。どちら見方によってもこの歌の真価はわからない。叙景において、実景とそれに触発された感懐とが見事に融合しているのだ。
 しかし、それだけではない。この歌をさらに味わい深いものしているのは、上二句によって表現されているイメージである。「もののふの」は「八十」の枕詞、「もののふの八十」は「うじ」を導く序詞に違いないが、そう取るだけでは、「全体の上より見れば上三句は贅物に属し候」(正岡子規『歌よみに与ふる書』)といった否定的評価しかできない。ところが「もののふ」は、奈良朝までは、朝廷の官人を指し、「八十」は「多数」を意味する。「うじ」は「氏」でもある。つまり、この表現によって、かつて近江朝に官人として仕えていた多数の氏族たちが表象されている。第三・四句において、その氏族たちの幻影が網代木に遮られて滞っている波のイメージに重ねられている。そして「行くへ知らずも」と結ばれている。
 この表現技巧を明快に読み解いて見せた土橋寛の的確な評言(『万葉集―作品と批評―』)を、金井論文は、「土橋はモノノフの語感には剽悍な古代戦士の集団のイメージがあり、大化改新以後の古代豪族、特に壬申の乱に敗れた近江朝廷側の諸氏族の流転の姿がすなわちモノノフの流亡の姿として、乱に由縁の宇治川の川波に重ね合されて形象化されていると説く」とまとめている(34頁)。
 「人麻呂のいわゆる無常感は、時間認識の変革、自己の個人的な体験、近江朝興亡の史実などを酵母として、詩人の内部におのずから発酵したものである。したがって人麻呂は仏教にいう無常とは無関係に、というより別種の「無常」という「もの」を実体として感覚的に知っていた」(同頁)と金井は結語で述べている。前半には賛成だが、後半は受け入れがたい。「仏教とは無関係に」というところまではいいのだが、その後があまりにも不用意な文言である。なぜなら、無常は「もの」ではなく、ましてや実体ではありえないからである。実体であるのならば、無常は無常でありえない。
 国文学者だからといって、哲学的概念のこのような幼稚な誤用は許されることではない。文学の自律的価値を自明の前提として受け入れることは、文学を研究する者の哲学的概念に関する無知を正当化しない。












「柿本人麻呂の無常観(二)―「見れば悲しも」近江朝興亡」

2019-06-19 09:36:46 | 詩歌逍遥

 柿本人麻呂の生没年は不明である。低位の官人であったために正史にはその名が見えず、その事績については、万葉集の中の題詞・左注など手がかりとして推測するほかない。天武朝にはすでに宮廷歌人としての活動を開始していたと思われるが、作歌は持統朝(686‐697)に集中している。文武期まで活動していたと思われる。没年は、八世紀の初め、おそらく平城遷都直前であろう。
 古代最大の内戦、壬申の乱(672年)のとき、人麻呂が何歳であったかは推測の域を出ないし、そのときどこにいたかもわからない。近江京は、前代までの都に見られない大陸風の大殿、大宮が湖畔の高みに聳え立つ壮麗さであったと想像される。その都が大和からの遷都後わずか六年にして灰燼に帰した。この「水沫の如き興亡」(金井論文32頁)が少年あるいは青年詩人人麻呂に深刻な影響を与えなかったと考えるほうがむしろ不自然であろう。
 たとえ実際には目にすることがなかったとしても、長じてから身に付けた知識や周囲の人たちから得られた情報を基に、類稀な詩的感性・才能に恵まれた若き詩人人麻呂は、近江京の壮麗さを生き生きと想像し、それを詩的言語によって表現することができただろう。ところが、人麻呂が宮廷歌人として活躍した天武・持統朝には、近江京は荒廃にまかせ、その復興はありえず、死せる都であった。
 この廃都を人麻呂が訪れたのは持統朝初年の頃である。壬申の乱後わずか二十年足らずの間に壮麗だったはずの都の姿はそこに見る影もなく、かつてそこで綺羅びやか衣装を纏って行き交っていたであろう大宮人の姿はもはや幻影でしかない。「失われたものは再び帰らぬとの実感が、再生の象徴である春草の繁茂を見るにつけても深く刻みこまれる悲しさを人麻呂は歌っている」(金井論文同頁)。
 それは巻一・二九の長歌のことである。その最後の十数句を引いておく。

天皇の 神の命の 大宮は ここと聞けども 大殿は ここと言へども 春草の 繁く生ひたる 霞立ち 春日の霧れる 

ももしきの 大宮所 見れば悲しも











「柿本人麻呂の無常観(一)― 円環的時間認識の危機と歴史的時間認識の浸透」

2019-06-18 18:53:08 | 哲学

もののふの八十宇治川の網代木にいさよふ波の行くへ知らずも(巻三・二六四)

 柿本人麻呂の無常観を問題にするときに必ず取り上げられる一首である。単なる叙景か、仏教的無常観の表白か、という議論については、今日すでに決着がついている。人麻呂は、中国思想の影響は受けていたとはいえ、いわゆる仏教的無常観は持っていなかった。それに、そもそも叙景か思想表現かという二者択一的な問題設定が間違っている。
 それでもなお、人麻呂における無常観、あるいは人麻呂固有の無常観という問題は残る。この点についても、『万葉集を学ぶ 第三集』(有斐閣選書、1978年)所収の金井清一論文「柿本人麻呂の無常感」の行き届いた考察によってほぼ解決されている(ただ、短い論文であるにもかかわらず、なんの説明もなしに、無常感と無常観をかなり無造作に混用しているのはいただけない)。
 金井によれば、人麻呂の無常観は、大陸からの暦法の渡来によって引き起こされた当時の時間認識の変革と密接に関係する。「時間は永遠の彼方へ向かって直線的に流れ去るものであり、万物はその直線上に一時期存在するだけのものとして認識されるようになったのである。過ぎて行ったものは還らない。同一の「時」は再びやって来ない。歴史とはかかる時間の上に展開される人間の営みである。これはまた、死は生との断絶であるという点で、死に対する観念の変革に直接つながる。人麻呂が挽歌詩人であると、しばしば説かれるのも彼がこのような時間認識の変革に伴う死の観念の変革期に生きて、死の歎きを従来と異なって激しく絶望的に体験せざるを得なかった事情が一半にある」(30頁)。
 妻の死という「痛切な事実が時間に対する新しい感覚によって受けとめられ、受けとめられることによって認識は深められ、死は滅びとして消滅として絶望的に痛切となったのである。前代までの生命の再生観念との決定的な相違がここに生じる。これが人麻呂の無常感といわれるものの実相である」と金井は言い切っている(31頁)。
 再生への信仰を支える円環的・循環的時間認識が根本から揺らぎ、不可逆性がその本性である歴史的時間認識が浸透し始めた時代に、もっとも大切な人の死という経験を通じて、苦しみとしての無常感が痛切な仕方で深められたところに人麻呂の無常観が成立したと言えるのではないだろうか。
 しかし、それだけではない。












「形容詞」としての「魂」― 川端康成「抒情歌」についての哲学的考察断片

2019-06-17 01:21:30 | 哲学

 「魂という言葉は天地万物を流れる力の一つの形容詞に過ぎないのではありますまいか。」

 これは川端康成の初期の代表作の一つとされる「抒情歌」の中に、作品の主人公でありかつ語り手である女性の独白として出て来る文である。本作は、恋人に捨てられながら、その恋人をずっと愛し続け、その人の死を知った後、その喪失をどう受け止めるかを、今は亡きその恋人へと語りかける独白形式で綴った作品である。
 川端康成は、「文学的自叙伝」の中で本作への愛着を語り、三島由紀夫は、新潮文庫版『伊豆の踊り子』の解説の中で、本作は「川端康成を論ずる人が再読三読しなければならぬ重要な作品である」と高く評価している。
 類稀な美しい文章で綴られたこの作品は、しかし、難解な作品でもあり、これまで多くの研究者や評論家たちによって論じられてきた。魂の救済とその不死性、愛の永遠性、死後の世界、記憶の創造性、心霊現象・交霊術・遠隔精神反応、人間中心主義的世界観の批判、万物照応的宇宙観、生命の無限変容としての輪廻転生、東西古代文明の共通性など、実に多様な要素が、多数の文献を参照しながら、主人公竜枝の独白の中に織り込まれている。
 冒頭に掲げた文は、それだけではちょっとわかりにくいかも知れない。「形容詞」という言葉がこの文の他の言葉と馴染まないように思われる。この点、Sylvie Regnault-Gatier の仏訳が理解の助けになる(ただ、この訳、他の箇所では、問題も少なくないのであるが)。当該の文は、 « âme, ne serait-il pas un attribut de l’énergie qui coule à travers toutes les créations du ciel et de la terre ? » と訳されている。「形容詞」に « attribut » (属性)という訳を当てている。つまり、魂は、天地万物を流れる力の一つの属性に過ぎないのではないか、と解釈している。妥当な解釈だと思う。
 ただ、attribut を「実体の本質を成す性質」という意味に取ってしまうと、誤解が生じる。なぜなら、「天地万物を流れる力」は、それ自体がつねに同一なままの実体ではなく、無限に変容する力だからである。それは前後の文脈から明らかだ。魂はその力の一つの性質を表現している、ということだと思う。
 本作は、川端康成自身の死生観がそこに表現されているだけではなく、もっと普遍的な死生観の問題が提起されていて、哲学的考察の対象としてもとても興味深い作品である。












無常、あるいは生々流転のことわりを書く作家

2019-06-16 00:22:56 | 読游摘録

 6月6日に田辺聖子が亡くなった。その4日後、川上弘美が朝日新聞に追悼文を寄稿している。私が読んだのはデジタル版である。その文章のタイトル「田辺聖子ほど無常を書く作家を、私は知らない」が目にとまった。
 私は田辺聖子の作品を読んだことがない。特段の理由はない。関心がなかったとしか言いようがない。1977年に刊行されたパロディ小説の『お聖どん・アドベンチャー』というタイトルには笑ったが、読みはしなかった。
 追悼文の次の箇所は、無常という言葉を川上弘美がどのような意味を込めて使っているか、よく示している。

 たとえば、ある小説の中には、一人の男を愛している女がいる。男も女を愛している。愛はすべてを豊かにする。仕事も、生活も、ものを食べることも、もちろん体を重ねることも、すべては愛のもとで、輝かしい。ところが、その輝かしさが永遠に続くことは、決してないのだ。時間が過ぎてゆくにつれ、美しかったものは爛熟し、爛熟したものは異なるものへと変化し、何ごともとどまることはできない。外圧からではなく、ただ時が流れたというそのことだけによって、二人のいた場所は崩れてゆく。

 無常である。そうだ、田辺聖子は、無常を書く小説家なのだ。むろんわたしたち小説家は、誰もが無常を描く。けれど、田辺聖子ほど犀利に無常を描く作家を、わたしは知らない。「ユーモアあふれる」「大衆的な」「優しい」というような形容をされる田辺聖子は、たしかにその通りの小説を書くのだけれど、そのわかりやすくまた飄々とした中に、こんなにもせつない生々流転のことわりがあるということに、驚いてしまうのだ。

 無常とは、生々流転のことわりのことである。もっと端的に言えば、万物にとっての真実にほかならない。それは、だから、受け入れるしかない。しかし、真実を悲しむ理由はない。ユーモアをもって、皆にわかりやすく、優しく、繊細に、その真実の諸相を描き出すこと、それが作家田辺聖子の仕事だった、ということなのだろう。











誤植に感応する詩人の感性 ― 吉増剛造『我が詩的自伝 素手で焔をつかみとれ!』

2019-06-15 14:23:32 | 哲学

 吉増剛造氏の『我が詩的自伝 素手で焔をつかみとれ!』(講談社現代新書、2016年)は、二人の聞き手を前にして氏が語った生い立ちの記である。原稿に起こした後、吉増氏がどの程度手を入れたのかはわからないが、氏独特の語り口が生き生きと再現されている。氏とはストラスブールやパリで何回かお目にかかり、お話を伺う機会があったので、本書を読んでいると、その肉声が聞こえてくるように感じられる。
 2000年のことだったと記憶しているが、日本学科主催で吉増氏に逐次通訳付きのご講演をしていただいたことがある。その前年末に刊行された『生涯は夢の中径―折口信夫と歩行』(思潮社)を基にしたお話だった。その講演の席に、思いもかけず、ジャン=リュック・ナンシー先生がいらっしゃった。先生は、氏の詩集『オシリス、石ノ神』(思潮社、1984年)の中の「織姫」の仏訳に衝撃を受け、 Corpus(Éditions Métailié, 初版1992年)の中で引用していた。それもあって、挨拶に来られたのだという。先生との繋がりについては、本書でも言及されている。
 本書には、氏の独自の詩的思索が展開されていて興味が尽きない。昨日読んでいて大変印象に残ったのが、ジェラール・ド・ネルヴァルの「黄金詩篇」(« Vers dorés »)の訳について言及している箇所だった。
 氏は、平凡社の『世界名詩集大成』の中の同詩の訳がとても好きだった。ところが、あるとき、ネルヴァルの専門家である入沢康夫と電話で話していて、その訳に誤植があると知る。「愛の神秘は金属の中に息う」(« Un mystère d’amour dans le métal repose »)とあるべきところが、「愛の神秘は全層の中に息う」となってしまっていたのである。これについて氏は次のように語っている。

ネルヴァルの「愛の神秘は金属の中に息う」というのもいいけれども、僕は誤植の「愛の神秘は全層に息う」というそれにも反応して感応してるの。[中略]僕の中で、誤植を起こしたときの印刷所の職人が感じたであろうような何かっていうのにかなり過剰に反応するの。だから両方よしとする。そういう誤りが起きると誤りにも何かちょっと生気があるんだよね。

 たとえ訳としては間違っていても、詩人はその表現に感応する。詩人の中にいわば化学反応が起こる。それが詩的創造の養分ともなる。
 正解は正解としてそれを尊重しつつも、誤植という人間の誤りがこの世界の中に図らずも生み出した別の声を詩人は聴き取る。詩的真実の在り処に触れる思いがする。












「学問の友としての猫」

2019-06-14 23:59:59 | 読游摘録

 田中貴子著『猫の古典文学誌 鈴の音が聞こえる』(講談社学術文庫、2014年。初版は淡交社より2001年刊)は、猫たちが登場する古典文学作品の読み解きとしてとても面白い。どの章から読み出してもよい。
 第五章「猫を愛した禅僧たち」は、中世の禅僧たちが猫を詠んだ膨大な数の漢詩の中からいくつかの詩句を取り上げ、解釈を試みている。猫を詠んだ詩句が多いということは、単に禅僧たちには猫好きが多かったということではないし、実際に飼っていた猫を詠んだとも限らない。「猫を詠んだ詩句は猫のたたずまいを禅の教義と関連づけて解釈すべき場合が多い」と著者は言う。ただ、すべてがそうだというわけではない。「書物を友として一人思索にふけるという生活の身近に実際の猫がいたからこそ、これほどの詩句が生まれたかもしれない」と著者は推測する。
 それに、猫は、単に愛玩動物として飼われていたのではない。書物を齧るねずみたちから書物を守ってくれる番猫でもあった。その猫たちを詠んだ詩句をこれだけ禅僧たちが遺したのは、猫たちを「学問の友」として扱っていたからではないかと著者は想像する。この想像は愉しい。












猫に戯れる哲学者、西田幾多郎

2019-06-13 19:22:46 | 哲学

 西田幾多郎の『続 思索と体験』に収録された「暖炉の側から」という随筆は、一と二に分かれています。初出は、どちらも "The Muse" という京大関係の英文学者が中心になって1925年10月に創刊された雑誌で、その第一〇巻第一号(1930年4月1日)と第一一巻第六号(1931年3月1日)にそれぞれ掲載されました。その二が執筆されたのは同年二月のことです。
 この年の十二月に西田は山田琴と再婚しますが、1925年に最初の妻寿美を、五年余りの病臥の生活の後に失って以後、再婚するまでの西田の家庭生活は、次男家に初孫誕生の慶事もあったにせよ、病身の三人の娘を抱えて、けっして明るいものではありませんでした。四女友子は1930年に結婚、六女梅子は1928年に東京女子大学に入学し上京、翌年在学のまま婚約しましたが、結核発病などのため、正式な結婚は三年後の1932年でした。1930年に友子が嫁いで、家に残ったのは、病弱で結婚を諦めざるを得なかった三女の静子のみとなりました。
 そのころ書かれたのがこの随筆です。その二の後半に飼っていた猫の死の話が出て来ます。「猫も死んでしまった」という一文から始まるこの一節は実にしみじみとした味わいがある名文だと思います。ご興味を持たれた方はどうぞお読みになってください。
 三女静子が遺した父の思い出の記(西田静子・上田彌生共著『わが父西田幾多郎』アテネ文庫4、弘文堂書房、1948年。現在は、岩波文庫『西田幾多郎歌集』に収録されています)を読むと、西田が大変な動物好きだったことがわかります。娘や孫たちをよく動物園に連れて行ったようです。猫も大好きだったようです。

 私の家にも何時も猫がいました。覚えているのに三毛子、カーテルムル(この名は父がホフマン作「猫の哲学者」から取ったもの)というのがいました。他に第一の次郎と第二の次郎というフランス猫、ベビちゃん事ペン公という青目のアンゴラ系の猫、黒兵衛という母親は黒に縞のあるペルシャ猫、父親は日本猫の混血がいました。父はこの黒猫にまた悪太郎などと愛称をつけて、とても可愛がっていました。無口な父は、私達とは一日中口を利かない日も珍しくなかったのですが、そんなときでも猫に戯れておりました。この猫と父との日常はほんとうにお伽噺の様に美しいものでした。青い目のペン公と悪太郎は、父の晩年七年も生きて父の死ぬ二、三年前相前後して死にました。

 その難解な哲学論文からは想像もつかない姿ですが、哲学の根本動機と動物愛とは西田の心の深いところで繋がっていると私は思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「いい猫さんだった」― 吉本隆明『なぜ、猫とつきあうのか』について

2019-06-12 23:59:59 | 読游摘録

 昨日の記事の内容に対して猫つながりということで、今日は、吉本隆明の『なぜ、猫とつきあうのか』のことをちょっと話題にします。
 この本は、1987年から1993年にかけて行われたインタヴューをもとに構成されたものです。聞き手は二人で、編集者かと思われます。初版は 1995年にミッドナイト・プレスから刊行され、1998年に河出文庫として再刊行され、この河出文庫版を底本とした講談社学術文庫版が2016年に刊行されています。内容からして、どうしてこの本が講談社学術文庫として刊行されたのか、ちょっと不思議なのですが、その理由は詳らかにしません。
 長女のハルノ宵子がイラストを描いていて、巻末の次女吉本ばななのエッセイ「吉本家の猫―解説にかえて」(河出文庫版に寄せてだと思われる)には、「さすがにうちの猫たちを的確に描いていて、今はもういない猫の生きている時の姿の懐かしさに涙が出た」とあります。
 吉本隆明が無類の猫好きであることは以前から知っていましたが、それは単に猫たちを溺愛するというのとは違って、猫たちに対する深い愛情とともに、敬意のようなものも感じられます。「猫さん」とか「野良猫さん」とか、インタヴューの中でしばしば猫たちをさん付けで呼んでいます。
 「猫の死、人間の死」と小見出しが付けられた節(おそらく編集者による)での、飼っていた猫たちの死の話の中で、何度か会ったことがあるような知人が死んだときの悲しさと、うちで飼っていた猫が死んだときの悲しさを比べて、後者の悲しみの方が切実だという実感から、「要するに、より親しい生き物の死の方が切実だっていうことです」と一旦は一般化しておきながら、その直後に、そういう自分の感じ方についてそれでいいのか問い返してもいます。
 本書は、議論としては歯切れの悪いところが他にもあちこちあって、「この本の、なんとなく盛り上がらないというか、無理がある感じが、なんとも間が抜けていてよく、妙に味が出ていますね。作っている人たち全員(父を含む)の困った気持ちが伝わってくるようだ」という吉本ばななの評言は絶妙にそのあたりの感じを捉えています。
 講談社学術文庫版に吉本ばななが寄せた短いエッセイ「その後の吉本隆明と猫」に、もうほとんど歩けなくなって家の中をほとんど這うように移動していた最晩年(確かNHKのドキュメンタリーでだったか、その姿を初めてテレビで見たときに衝撃を受けたのを覚えている)のある大晦日の場面が描かれています。
 吉本ばななが夫と子どもと実家に着くと、玄関にものすごい「死」の匂いが立ちこめていた。ケージが置いてあり、「具合の悪い半野良ちゃん」が入っていた。その猫が間もなく息を引き取った。

 父はその汚れて臭い亡骸のことを全くかまうことなく、すぐ近くの床にべたりと座って、ほんとうに優しく力をこめてその猫の頭をぐるぐると撫でながら「いい猫さんだった、いい猫さんだった」と言った。
 それが私の父と猫との関係の全てだと思えた。

 詩人・思想家として途方もなく大きな仕事を遺した吉本隆明のこのような最晩年の姿に私は深く心を動かされます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ベルジャーエフが愛した猫と世界の苦しみ

2019-06-11 18:55:33 | 哲学

 受苦の現象学的考察は、まだその緒についたばかりですが、さすがに30日連続で同じテーマで投稿し、しかもその大半をルイ・ラヴェルの受苦論の祖述とそれに触発されての若干の私見とに割いたので、いささか疲れましたし、かなり単調な文章になってしまいました。そのすべてではないにしても、お読みくださった方たちも、途中からかなりうんざりされたのではないでしょうか。それが証拠に、訪問者数と閲覧数がどちらも連載後半にはガクッと減っていきました。というわけで、ここで少し休憩したいと思います。
 とはいえ、いきなりまったく別の話題に話が飛ぶというわけでもありません。すでに予告したように、ラヴェルの後の考察対象は、ロシアの宗教哲学者ニコライ・ベルジャーエフ(1874-1948)です。ヨーロッパでは、二十世紀前半に多大な影響を与えた思想家の一人として紹介されることが多く、日本でも1940年代以降、主要著作が訳され、1960年代には白水社から全八巻の著作集が刊行され、数度重版されていることからもわかるように、かなり広く読まれたようです。『ドストエフスキーの世界観』(1923)は、邦訳も何度も刊行され、今でもドストエフスキー論の古典の一つとして読まれているようですが、その他の著作はどうなのでしょう。行路社が1984年から刊行を始めた著作集は未完のまま放棄されてしまったようです。やはり、どちらかというと、二十世紀ロシア思想に特に関心がある人たち以外には忘れられかけているのかも知れません。だとすれば、残念なことです。
 ベルジャーエフの大半の著作はロシア語で書かれていますが、私が今回取り上げる最晩年の著作 Dialectique existentielle du divin et de l’humain は、パリに亡命後二十年余り経た後、死の前年にフランスで刊行されました。平易な文体で書かれており、おそらく直接フランス語で書いたのでしょう。確証はないのですが、他の仏語版には明記されている訳者名がこの本にはないこともあり、そう思うわけです。
 この本は、もはや絶版ですが、古書市場には若干出回っています。ただ、ありがたいことに、Université du Québec à Chicoutimi と提携してボランティアベイシスで運営されている Les classiques des sciences sociales という素晴らしい電子図書館が無料で公開しています。PDF・WORD・RTF いずれのフォーマットでもダウンロードできます(こちらがリンクです)。
 この本の第五章が La souffrance と題されています。この章は、 « Je souffre, donc je suis »(「我苦しむ、ゆえに我あり」)という一文で始まります。今日は、同章の最初の方の次の箇所だけ引用します。

Rien de plus absurde que la théorie cartésienne d’après laquelle les animaux seraient de simples automates. Le christianisme n’a pas suffisamment insisté sur les devoirs de l’homme envers les animaux, et sous ce rapport le bouddhisme lui est supérieur. L’homme a des devoirs envers la vie cosmique. Une faute pèse sur lui. Lorsque, assistant à l’agonie de mon chat bien-aimé, je l’ai entendu pousser son dernier cri, ce cri éveilla en moi l’écho de toutes les souffrances du monde, de toutes les créatures du monde. Chacun partage ou doit partager les souffrances des autres et celles du monde entier.

 デカルトに対するちょっと乱暴な悪口はさておいて、キリスト教に対して、人間の動物たちに対する諸々の義務を十分に強調していないという批判は独特で、面白いと思いました。その点、仏教のほうが優れているとするベルジャーエフは、宇宙的生命を信じていて、その中で生きている人間は、その宇宙的生命に対してさまざまな義務があると考えています。
 その後に、ベルジャーエフの愛猫のことが出てきます。ベルジャーエフは、その猫の最期に立ち会い、最後の鳴き声を聞いたとき、「その鳴き声が、私の中に、世界のすべての苦しみ、この世界のすべての生きものたちの苦しみの反響を呼び起こした」と言っています。各々が他のものたちの苦しみと世界全体の苦しみを共有しなければならない、という汎共苦論とでも呼ぶべき思想がそこに示されています。
 愛した猫の最後の鳴き声に世界の苦しみを聴き取ることができるベルジャーエフの感性に私はとても親近感を覚えます。