痛みに対する積極的態度の次の階梯は共感(communion)である。
一応「共感」と訳した « communion » というフランス語は、とてもデリケートな取扱いを必要とする。辞書を引けばすぐにわかるように、この語は中世ラテン語の communio に由来し、もともとキリスト教世界で「聖なる共同体」「聖体」「キリスト教徒の共同体」「聖徒の交わり」「聖体拝領」等を意味する著しくキリスト教的含意の強い言葉である。一般の共同体や共感などの意味で広く使われるようになるのは、後の時代からである。
この語は、現代フランス哲学では、例えば、メルロ=ポンティが『知覚の現象学』の中で、「感覚とは文字通りコミュニオンである」(« la sensation est à la lettre une communion », Phénoménologie de la perception, Gallimard, 1945, p. 256)という使い方をしているが、これも聖体拝領(communion)の説明として用いられている。この語を、宗教性を抜きにして、共同・一致・交感・共感という一般的意味で使うことは、いわばフランス料理にノンアルコール・ワインを供するようなものである。
二十三年前、メルロ=ポンティについての博士論文課程資格審査論文の執筆中、ある草稿の中でこの語を使ったら、指導教授のジャン=リュック・ナンシー先生から「この語を安易に使うな」と厳しく注意を受けたことを今もよく覚えている。
ラヴェルは、特にキリスト教的意味でこの語を使っているわけではない。しかし、それは、この語をいわば中性化して使っているということではない。むしろ、苦しみという問題をカトリック世界の精神的気圏の中で普遍的な経験の問題として考察しようとしていると見るべきだろう(そこにラヴェル哲学の限界を見て取ることもできよう)。
これらのことを前提としつつ、ラヴェルの論述を追っていこう。
私たちを他の人たちから孤立させかねない痛みは、私たちの自由意志がその支配下に置くとき、人と人とを結ぶ絆をもたらす要因とならなければならない。この変換が可能であるのは、反対物同士こそ互いに固く結ばれているからである。
別離が深刻であったならば、それだけ絆も強くなるだろう。なぜなら、一度別離が克服されると、絆はわたしたち自身のもっとも内奥な部分において生まれるはずだからである。痛みがその内奥に籠もることを私たちに強いたのだから。
痛みは、私たちの存在の受動的な部分に関わり、事物や人々が外から私たちにもたらす作用につねに結びついている。その結果として、苦しむ者は、自分を苦しませるものとつねに結びついている。私たちがこの外との結びつきを断ち切ってしまうにつれて、他なるものへの無関心の場合がそうであるように、私たちの苦しむ力も減退する。しかし、確かに痛みは私たちを弱らせるにしても、その経験によって私たちが証しているのは、私たちに痛みを与えるものとの分離であるよりも、私たちとその痛みを与えるものとの結びつきである。
痛みとのこの関係は矛盾しているのだろうか。いや、それは見かけに過ぎない。自分に痛みを与えるものから自らの意志で離れようとするとき、人は痛みにまったく自分勝手な性格を与える。このとき、痛みからの離脱が実現されるとすぐに、痛みとの精神的な結びつきはたちまち断ち切られ、痛みはその強度を失う。ところが、私たちは、自分たちがもっとも愛する人たちによって、もっとも大きな喜びを感じるように、もっとも愛する人たちによって、もっとも大きな痛みを感じる。痛みが大きければ大きいほど、絆は強く、絆が強ければ強いほど、痛みは大きい。