内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「柿本人麻呂の無常観(一)― 円環的時間認識の危機と歴史的時間認識の浸透」

2019-06-18 18:53:08 | 哲学

もののふの八十宇治川の網代木にいさよふ波の行くへ知らずも(巻三・二六四)

 柿本人麻呂の無常観を問題にするときに必ず取り上げられる一首である。単なる叙景か、仏教的無常観の表白か、という議論については、今日すでに決着がついている。人麻呂は、中国思想の影響は受けていたとはいえ、いわゆる仏教的無常観は持っていなかった。それに、そもそも叙景か思想表現かという二者択一的な問題設定が間違っている。
 それでもなお、人麻呂における無常観、あるいは人麻呂固有の無常観という問題は残る。この点についても、『万葉集を学ぶ 第三集』(有斐閣選書、1978年)所収の金井清一論文「柿本人麻呂の無常感」の行き届いた考察によってほぼ解決されている(ただ、短い論文であるにもかかわらず、なんの説明もなしに、無常感と無常観をかなり無造作に混用しているのはいただけない)。
 金井によれば、人麻呂の無常観は、大陸からの暦法の渡来によって引き起こされた当時の時間認識の変革と密接に関係する。「時間は永遠の彼方へ向かって直線的に流れ去るものであり、万物はその直線上に一時期存在するだけのものとして認識されるようになったのである。過ぎて行ったものは還らない。同一の「時」は再びやって来ない。歴史とはかかる時間の上に展開される人間の営みである。これはまた、死は生との断絶であるという点で、死に対する観念の変革に直接つながる。人麻呂が挽歌詩人であると、しばしば説かれるのも彼がこのような時間認識の変革に伴う死の観念の変革期に生きて、死の歎きを従来と異なって激しく絶望的に体験せざるを得なかった事情が一半にある」(30頁)。
 妻の死という「痛切な事実が時間に対する新しい感覚によって受けとめられ、受けとめられることによって認識は深められ、死は滅びとして消滅として絶望的に痛切となったのである。前代までの生命の再生観念との決定的な相違がここに生じる。これが人麻呂の無常感といわれるものの実相である」と金井は言い切っている(31頁)。
 再生への信仰を支える円環的・循環的時間認識が根本から揺らぎ、不可逆性がその本性である歴史的時間認識が浸透し始めた時代に、もっとも大切な人の死という経験を通じて、苦しみとしての無常感が痛切な仕方で深められたところに人麻呂の無常観が成立したと言えるのではないだろうか。
 しかし、それだけではない。