内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

哲学の方法としての「膨張」(その七)― 生命の源泉への回帰へと向かわせる回心

2017-06-20 16:07:42 | 哲学

 クレティアンは、ベルクソンにとっての dilatation はプロティノス的意味での真の回心である、と言う。つまり、絶対的なものへの一転回である。ベルクソンにとっての絶対的なものとは生命にほかならない。絶対的なものへの一転回とは、上流への遡源、私たちがほんとうには決して離れたことのない源泉への回帰である(J.-L. Chrétien, La joie spacieuse, op. cit., p. 28)。

Si la métaphysique est possible, elle ne peut être qu’un effort pour remonter la pente naturelle du travail de la pensée, pour se placer tout de suite, par une dilatation de l’esprit, dans la chose qu’on étudie, enfin pour aller de la réalité aux concepts, et non plus des concepts à la réalité (Bergson, « Introduction à la métaphysique. » In La pensée et le mouvent, op. cit., p. 206).

 形而上学(現実に与えられた諸形態を越えた生命の世界への参入という意味での哲学)が可能であるとすれば、それは思考の働きの自然な傾斜を遡るための努力としてしかありえない。その努力は、考察対象である事物の中に精神の拡張によって直ちに入り込む努力であり、ついには現実から諸概念へと進むための努力であり、その逆の諸概念から現実へと向う努力ではない。
 ここでの概念は、現実からの抽象化によって得られた概念、それだけ現実よりも内容的に貧しくなった概念のことではなく、現実の差し迫った必要に拘束されている私たちをそこから解放し、生命の源泉へと私たちを回帰させる路を拓いてくれる道具・装置としての概念である。











哲学の方法としての「膨張」(その六)― 科学がもたらす快楽と哲学がもたらす歓喜

2017-06-19 21:17:54 | 哲学

 ベルクソンは、芸術に対してばかりでなく、科学に対しても、哲学の優位性を主張する。それは、私たちが生きる知覚世界により大きな時間・空間的広がりと奥行きを哲学が与えてくれる点においてである。
 この点についても異論は多々ありうるだろうが、まずはベルクソンのテキストを少し読んでみよう。引用するのは、1911年4月10日にボローニャの哲学国際会議(Congrès international de philosophie)での有名な講演「哲学的直観」(« L’intuition philosophique »)の最後の段落の最後の数行である。

Les satisfactions que l’art ne fournira jamais qu’à des privilégiés de la nature et de la fortune, et de loin en loin seulement, la philosophie ainsi entendue nous les offrirait à tous, à tout moment, en réinsufflant la vie aux fantômes qui nous entourent et en nous revivifiant nous-mêmes. Par là elle deviendrait complémentaire de la science dans la pratique aussi bien que dans la spéculation. Avec ses applications qui ne visent que la commodité de l’existence, la science nous promet le bien-être, tout au plus le plaisir. Mais la philosophie pourrait déjà nous donner la joie (La pensée et le mouvant, op. cit., p. 142).

 クレティアンが指摘してるように(J.-L. Chrétien, La joie spacieuse, op. cit., p. 28)、ここでの哲学への優位の置き方は問題を孕んでいる。
 芸術が、天与の才と幸運に恵まれた一部の選ばれた者にしか、しかも間遠にしか、与えない満足を、哲学は、万人に、いつでも、与えるであろう。こうベルクソンは言う。それは、(直観をその方法とする)哲学が、私たちを取り巻く亡霊たち(現在の必要に切り詰められた知覚世界の中でその本来の生命を失った事物)に命を再び吹き込み、(現在の必要に拘束されて生命力を失っている)私たち自身を生き返らせることによって可能になるであろう。
 しかし、哲学が万人によってつねに実践されているのならば、私たちの生きる世界はいつも生き生きとして、創造性に満ちているはずである。ところが、現実はそうではない。上掲の引用でも条件法が使われていることからわかるように、哲学が万人によってつねに実践されるには、それ相当の諸条件、満たすのがかなり、いや非常に、困難な諸条件が揃わなければならないであろう。その点、哲学は芸術に対して優位を占めるわけではない。
 科学に対しては、哲学は実践においても思弁においても相補的な役割を果たすであろうと言われている。しかし、科学は、その応用が生活の利便性の向上しか目ざさず(これも異議あり!ですよね)、私たちに充足を約束しはするけれど、せいぜいのところ快楽(plaisir 広い意味での物質的・肉体的束の間の満足ということでしょう)しかもたらさない。それに対して、哲学は、それだけでもう私たちに喜び(joie)を与えることができるだろう。
 この喜び(歓喜)と私たちの生きる世界の拡張(dilatation)とは、ベルクソン哲学において、同じ一つの経験である。












哲学の方法としての「膨張」(その五)― 私たち自身を私たちから隠してしまう現在という遮蔽幕

2017-06-18 16:56:49 | 哲学

 私たち自身の生命の拡張によって、私たちは生命そのものの拡張を経験する。私たち自身の存在のこの動態性は、私たちに存在そのもの動態性を再発見させてくれる。しかし、これらのことは哲学の専売特許ではない。芸術もまた与えてくれる。

L’art nous fait sans doute découvrir dans les choses plus de qualités et plus de nuances que nous n’en apercevons naturellement. Il dilate notre perception, mais en surface plutôt qu’en profondeur. Il enrichit notre présent, mais il ne nous fait guère dépasser le présent (Bergson, « La perception du changement ». In La pensée et le mouvement, op. cit., p. 175).

 しかし、知覚世界の中で私たちがそれまで気づかなかったことに気づかせてくれるという点では、芸術は哲学と共通するとしても、芸術による知覚の拡張が主に表面と現在に限定されているのに対して、哲学においては、その拡張が奥行きを持ち、過去と未来へと広がっていく。
 哲学的拡張は、現在が過去を保持しつつさらなる厚みを持つようになることでもあるし、現在のうちに未来が部分的に描き出されることでもある。それは、さらに、私たち自身のそのような過去と未来への広がりを覆い隠してしまい、私たちから私たち自身を隠してしまう現在という遮蔽幕から距離を取ることを可能にする。
 このような芸術と哲学との区別の仕方にはもちろん反論もあることだろう。しかし、その問題はここでは措く。哲学的拡張が与えてくれるものが、私たちの生命の単なる現在における拡張ではなく、過去と未来への奥行きをもった拡張であり、その拡張が現在の変容をもたらすものであることだけをここでは確認しておく。












哲学の方法としての「膨張」(その四)― 直観を拡張し、繋ぎ合わせる哲学的作業

2017-06-17 16:14:17 | 哲学

 クレティアンが引用しているベルクソンのテキストを辿りながら、ベルクソンにおける直観と哲学との関係、その関係における拡張(あるいは膨張)作用についての理解をもう少し深めたいと思う。
 知覚世界を穿ち、それを拡張させる直観は、しかし、それがそのまま哲学だというわけではない。直観は、それ自体で持続性を持っているわけではなく、いわば一瞬の煌めきのように、パッと辺りを照らしてはまたたちどころに消えていく。それだけで対象と合一するわけでもなく、対象との間にはまだ距離がある。

De ces intuitions évanouissantes, et qui n’éclairent leur objet que de distance en distance, la philosophie doit s’emparer, d’abord pour les soutenir, ensuite pour les dilater et les raccorder ainsi entre elles. Plus elle avance dans ce travail, plus elle s’aperçoit que l’intuition est l’esprit même et, en un certain sens, la vie même (Bergson, L’évolution créatrice, PUF, coll. « Quadrige Grands textes », 2007, p. 268).

 現れては消えていくこれらの直観に対して、哲学はまず何をすべきなのか。まずはそれらの直観を素早く捉え、それらを支えることである。そして、それらを拡張し(膨らませ)、それらを繋ぎ合わせる。哲学は、この作業を進めれば進めるほど、直観とは精神そのものであり、ある意味において、生命そのものであることに気づいていく。
 上掲の引用の中でも dilater(膨らませる、広げる)という動詞が使われている。しかし、哲学的作業としての dilater とは、単に同質なものの膨張あるいは延長ではなく、質的に異なったものの間に繋がりを付けることである。その作業を通じて、安定的・同一的な知覚世界を穿ち、そこから知覚世界の拡張のきっかけをもたらす直観こそが精神そのものであり、そのような質的飛躍をもたらす精神が生命そのものなのだと哲学は気づいていく。そのように気づいていくことそのことが哲学の実践なのだと言い換えてもいいように思う。












哲学の方法としての「膨張」(その三)― 知覚を穿ち、知覚を拡張する直観

2017-06-16 09:30:19 | 哲学

 生への注意が要請する差し迫った行動の必要から解放されればされるほど、私たちの人格はより深層へと質的に拡張される。しかし、その質的拡張に曖昧さは伴わないのであろうか。
 クレティアンの論述を辿ってみよう。
 拡張(膨張)は意志から始まる。それは行為であり、努力である。この努力は私たちの意識を拡張し、私たちの生きる時間は私たちの知性の諸能力を変容させる。こう述べられた後に、ベルクソンからの引用が置かれている。

Mais supposez qu’au lieu de vouloir nous élever au-dessus de notre perception des choses, nous nous enfoncions en elle pour la creuser et l’élargir. Supposez que nous y insérions notre volonté, et que cette volonté se dilatant, dilate notre vision des choses (Bergson, « La perception du changement. » In La pensée et le mouvent, PUF, coll. « Quadrige Grands texes », 2009, p. 148).

 この引用は、ベルクソンが一九一一年五月二六・二七日にオックスフォード大学で行った講演原稿の一節である。
 諸事物の知覚を越えた高みに自分を置こうとするかわりに、知覚の中に深く入り込み、知覚を穿ち、知覚を拡張することを考えてみよ。知覚の中に私たちの意志を挿入し、その意志が自己拡張し、私たちの諸事物の見方を拡張することを考えてみよ。そうベルクソンは提案する。
 この一節は、ベルクソン哲学の方法である直観の重要な定式化の一つになっている。ベルクソンによれば、それまでの哲学はいずれも恣意性を含んだ何らかの概念化によって知覚世界を貧困化するという結果に終わっていた。それらに対して、知覚世界の質的拡張としての直観を方法とする新しいタイプの哲学は、そのような弊に陥らずに、過去の哲学が発生させてきた偽問題から私たちを解放してくれる。












哲学の方法としての「膨張」(その二)― 人格の深層への質的拡張

2017-06-15 14:28:42 | 哲学

 ベルクソンにおいて哲学的直観の可能性の条件である膨張とはどのような変化を指しているのか。何が膨張するのか。膨張するとはどういうことなのか。
 『物質と記憶』第七版(1911)以降の冒頭に置かれるようになった緒言の中で、「生への注意」(« l’attention à la vie »)が話題となっている箇所に上記の問いに対する答えを見出すための鍵の一つがある。
 心理的生は、生への注意の度合い応じて、それが行動へと直結している場合もあれば、行動にはすぐには結びつかない場合もある。つまり、生への注意の度合いに応じて、心理的生には可変的な層があるということである。
 これが『物質と記憶』の主導的な考え方の一つであると述べた後に dilatation という語を含んだ一文が登場する。クレティアンは部分的にしか引用していないその文の全体を読んでみよう。

Ce que l’on tient d’ordinaire pour une plus grande complication de l’état psychologique nous apparaît, de notre point de vue, comme une plus grande dilatation de notre personnalité tout entière qui, normalement resserrée par l’action, s’étend d’autant plus que se desserre davantage l’état où elle se laisse comprimer et, toujours indivisée, s’étale sur une surface d’autant plus considérable (Matière et mémoire, PUF, coll. « Quadrige Grands textes », 2008, p. 7).

 通常私たちが心理状態のより大きな錯綜と見なしているものは、ベルクソンによれば、私たちの人格 personnalité 全体のさらなる膨張(あるいは拡張)ということになる。私たちの人格は、普通の状態では行動によって制約されている。ところが、私たちの人格は、それを締めつけている箍が緩めば緩むだけ、伸び広がる。分割されることなく、より広大な面へと広がる。
 ベルクソンは、『物質と記憶』の別の箇所では、意志の膨張(拡張)や知性のそれについても語っている。さらに、別の箇所では、同一面での膨張(拡張)よりも膨張(拡張)によって生じた他の面への深化に力点が置かれてもいる。哲学的直観の可能性の条件となるのは、同一面での量的膨張(拡張)ではなく、より深い層への質的膨張(拡張)だからであろう。












哲学の方法としての「膨張」(その一)

2017-06-14 18:53:33 | 哲学

 六月十日の記事で取り上げたジャン=ルイ・クレティアンの La joie spacieuse は副題が Essai sur la dilatation となっている。
 この « dilatation » という語は「膨らむこと、広がること;(心などが)晴れ晴れすること」(『小学館ロベール仏和大辞典』)という一般的な意味をもっており、 « dilatation de l’âme » と言えば、「(喜びなどで)胸が膨らむこと、心が晴れ晴れすること」である。喜びを感じるとき、日本語でも同様な身体感覚表現を使うことからも、これが人間にとってかなり普遍的な感覚であることがわかる。
 この語は、物理学では「膨張」を意味し、数学では「膨張変換」、医学では身体器官の「拡張、拡大」を意味する。
 哲学ではどうであろうか。哲学における「膨張(拡張)?」と首を傾げてしまう方も多いだろう。もちろん、この語はいわゆる哲学用語には属さない。しかし、このフランス語をまさに自身の哲学のキーワードとして使った哲学者がいる。それがベルクソンである。以下、クレティアンの上掲書の記述を辿ってみる。
 ベルクソン哲学の際立った特異性の一つは、「膨張(拡張)」がその哲学の方法そのものの名になっていることである。この語が哲学(すること)の中心的な問題を示している唯一の例がベルクソン哲学である。ベルクソン哲学において、膨張は直観の別名に他ならない。もちろんそれはこの語に新しい意味を与えてのことではあるが。
 しかし、膨張と直観とは単に併用されているのではない。なぜなら、膨張は直観によって到達し生きることが可能になるものを意味しているのではなく、直観の形成のされ方を意味しているからである。つまり、経験のそれまで隠されいた諸次元に到達しそれを生きることが直観によって可能になるその仕方を意味しているからである。
 一言で言うと、膨張はベルクソンにとって直観の可能性の条件なのである。哲学固有の膨張はベルクソンにおいて特別な意味を与えられている。それは芸術によってもたらされる膨張(拡張)とは区別される。哲学における膨張はより普遍的なことがらだからである。それは、他方、科学が与えることができない喜びの源泉である。
 これだけ読んでもすぐには納得できないし、よくわからない、と思われる方もいらっしゃるであろう。私もその一人である。明日の記事では、この続きを読んでみよう。そこにはベルクソンからの引用も出てくるから、より直接的にベルクソンの所説を捉えることができるだろう。












哲学史の二つのモメント:噴出と堆積 ― ベルクソンのコレージュ・ド・フランス講義『自由の問題の変遷』について(承前)

2017-06-13 17:10:12 | 哲学

 昨日の記事で取り上げたベルクソンのコレージュ・ド・フランスでの1904-1905年度講義『自由の問題の変遷』第一回目の講義の終わり(op. cit., p. 31-32)に、ベルクソン独自の哲学史観が印象深い比喩によって簡潔に提示されている。
 ベルクソンによれば、西洋哲学史において、必然性の観念の変遷・進化は漸進的・連続的であるのに対して、自由の直観はむしろ爆発的・突発的な現われ方をする。自由か必然かという対立は、二つの理論的立場の対決的な議論という形を取ることはなく、必然主義を主張する学説が自由論を自説のシステムの中への吸収を試みるという形をつねに取る。必然主義の学説はその内部で自由に一定の定義を与えようと努力するが、実際にはその定義は必然性に何らかの仕方で還元されてしまう。
 そこで、ベルクソンは、歴史の中にその都度現れる自由の新しい直観を、爆発に、あるいは噴火に喩える。それに対して、必然性を主張する学説を、連続的な流水の侵食力に喩える。自由の直観の噴火によってもたらされた思考の溶岩が次第に凝固していくと、流水がそれを今度は徐々に侵食し、仕舞にはすっかり粉砕してしまい、地層として堆積させる。自由の直観は、そのような既存の連続的な堆積化にその都度新しい素材を与えているのだ。
 哲学史におけるこのような自由と必然の関係を、爆発・噴火力と侵食・堆積力と関係に比定し、それに基づいてベルクソンは独自の哲学史観を提示する。
 通常の哲学史では、長い時間をかけて作用する侵食・堆積力の結果として得られたもののみを諸観念の変遷・進化の歴史と見なしている。ところが、実際は、哲学の歴史の中には、そのような連続史観の哲学史が認めないもう一つの力がある。それが自由の直観の爆発・噴火力である。この力こそが侵食・堆積力にそれが作用するための素材を与え、いわゆる哲学史の内容を形成しているのである。
 このような哲学史観に立って、ベルクソンは、西洋哲学史における自由の問題の歴史を講義の中で辿り直していく。












概念的表現と不可分の声 ― ベルクソンのコレージュ・ド・フランス講義『自由の問題の変遷』について

2017-06-12 18:45:38 | 哲学

 今年の一月にPUFからベルクソンのコレージュ・ド・フランス講義の第二冊目 L’évolution du problème de la liberté が出版された。第一冊目として昨年出版された Histoire de l’idée de temps. Cours au Collège de France 1902-1903 については、今年の二月四日の記事で取り上げた。
 この第二冊目は、1904-1905年度に行なわれた講義の筆記録である。一冊目同様、講義に出席できないシャルル・ペギーが雇ったプロの速記者二人による記録であるから、実際の講義内容に忠実であるばかりでなく、ベルクソンの語り口をかなり正確に再現していると考えることができる。おそらくは入念に準備してあったであろう自身の講義ノートの表現がそのまま口頭で一気に読み上げるには長過ぎると判断したときは、途中で文を切って、言い直しているところも所々に見られ、ベルクソンの息遣いが感じられて興味深い。
 この講義は、ベルクソンがコレージュ・ド・フランスで近代哲学史を初めて担当する年の講義である。前任者は、最近また注目され直している哲学者・社会学者のガブリエル・タルドである。前年までの四年間、ベルクソンの担当は古代哲学史だった。
 近代哲学史の最初の講義の主題として「自由の問題」を選んだのには、ベルクソン自身の哲学の最初の大きな主題に立ち戻り、それを古代から近代までの哲学史の流れの中に位置づけるという意図も働いていたことであろう。しかし、この講義と並行して書き進められていた『創造的進化』(1907年刊行)の内容に対応しているところもあり、さらに驚くべきことは、三十年近く後に出版される『道徳と宗教の二つの源泉』(1932年)の内容を先取りしているところもあることである。
 ベルクソン哲学の気鋭のスペシャリストの一人である Arnaud François が本書の校訂を担当し、簡にして要を得た解題を書いている。ただ、ちょっと残念なことに、索引に不備がある。これは、目次がただ講義の回数と日付を示すだけの簡単なものでそれを見ても各回の中身が一切わからないだけに、なおのこと残念である。プラトンとカントとは問題の内容からして当然のこととしてかなり頻繁に名前が出て来るし、特に両者それぞれの自由論を立ち入って考察している箇所もあるのに、索引に両者の名前がないのである。仕方ないから自分で調べて巻末にポストイットで頁数を貼り付けておいた。まだ見落としもあるだろうけれど、プラトンの名が出てくる頁は49頁あり、カントは39頁(同一頁何回も出てくる場合もある)。
 明日の記事では、講義第一回目の終わりに見られるベルクソンによる哲学史の哲学について少し話題にする。













具象的であるとはどういうことか ― ピエール・フランカステル『芸術と技術』に事寄せて

2017-06-11 23:59:59 | 講義の余白から

 この夏の東京での集中講義のテーマについては二月八日の記事で紹介した。今日は、その講義の準備の一環として、ピエール・フランカステル(Pierre Francastel, 1900-1970)の Art et technique aux XIXe et XXe siècles, Gallimard, coll. « Tel », 1988 (la première édition, Éditions de Minuit, 1956) を読んでいた。芸術社会学の創始者の一人であるフランカステルの諸著作は、その分野で今日もなお必読文献であるから、やはり読んでおかなくてはならないからだ。
 現代芸術を語るときに、抽象と具象とはあたかも自明の対概念のように使用されることがある。しかし、実は、この対概念をどう定義するかということが現代芸術の問題であることがフランカステルを読むとわかる。
 例えば、フランカステルは、symboliquefiguratif とを次のように定義する。

Symbolique, c’est substitut, équivalence, allusion, signe conventionnel et qui peut être arbitraire d’une chose. Figuratif, implique l’existence de certaines relations de structure ou de disposition entre le système de signes qui représente et l’objet représenté. On ne saurait faire de l’art la traduction fragmentaire d’un réel donné ; l’art n’est pas seulement un symbole, il est création ; à la fois objet et système, produit et non reflet ; il ne commente pas, il définit ; il n’est pas seulement signe, il est œuvre — œuvre de l’homme et non de la nature ou de la divinité (op. cit., p. 14).

 フランカステルは、figuratif という語を、いわゆる「具象的な」という狭い意味に限定するのではなく、一方で、その指示対象を可能な限り拡張しながら、他方で、できるだけ明確な定義を与えようとする。フランカステルにおいて、具象的であるということは、表象に用いられた記号の体系とそれによって表象された対象との間に或る構造的・配置的関係があることを含意している。
 芸術は、与えられた現実の断片的で恣意的な翻案ではない。芸術は、ただの象徴ではない。それは創造なのだ。芸術は、考察の対象でありながら、それ自体で一つの体系を形成しており、それ自体が生み出されたものであって、何かの単なる映しではない。芸術は、評釈することではなく、定義するものだ。芸術は、単なる記号ではなく、作品である。人間の作品であり、自然や神性の賜物ではない。
 この定義に従えば、「具象的」作品とは、現実世界の中で他のシステムと関係を構築しつつ、それ独自の形の世界を形成するもののことだということになる。