クレティアンが引用しているベルクソンのテキストを辿りながら、ベルクソンにおける直観と哲学との関係、その関係における拡張(あるいは膨張)作用についての理解をもう少し深めたいと思う。
知覚世界を穿ち、それを拡張させる直観は、しかし、それがそのまま哲学だというわけではない。直観は、それ自体で持続性を持っているわけではなく、いわば一瞬の煌めきのように、パッと辺りを照らしてはまたたちどころに消えていく。それだけで対象と合一するわけでもなく、対象との間にはまだ距離がある。
De ces intuitions évanouissantes, et qui n’éclairent leur objet que de distance en distance, la philosophie doit s’emparer, d’abord pour les soutenir, ensuite pour les dilater et les raccorder ainsi entre elles. Plus elle avance dans ce travail, plus elle s’aperçoit que l’intuition est l’esprit même et, en un certain sens, la vie même (Bergson, L’évolution créatrice, PUF, coll. « Quadrige Grands textes », 2007, p. 268).
現れては消えていくこれらの直観に対して、哲学はまず何をすべきなのか。まずはそれらの直観を素早く捉え、それらを支えることである。そして、それらを拡張し(膨らませ)、それらを繋ぎ合わせる。哲学は、この作業を進めれば進めるほど、直観とは精神そのものであり、ある意味において、生命そのものであることに気づいていく。
上掲の引用の中でも dilater(膨らませる、広げる)という動詞が使われている。しかし、哲学的作業としての dilater とは、単に同質なものの膨張あるいは延長ではなく、質的に異なったものの間に繋がりを付けることである。その作業を通じて、安定的・同一的な知覚世界を穿ち、そこから知覚世界の拡張のきっかけをもたらす直観こそが精神そのものであり、そのような質的飛躍をもたらす精神が生命そのものなのだと哲学は気づいていく。そのように気づいていくことそのことが哲学の実践なのだと言い換えてもいいように思う。