生への注意が要請する差し迫った行動の必要から解放されればされるほど、私たちの人格はより深層へと質的に拡張される。しかし、その質的拡張に曖昧さは伴わないのであろうか。
クレティアンの論述を辿ってみよう。
拡張(膨張)は意志から始まる。それは行為であり、努力である。この努力は私たちの意識を拡張し、私たちの生きる時間は私たちの知性の諸能力を変容させる。こう述べられた後に、ベルクソンからの引用が置かれている。
Mais supposez qu’au lieu de vouloir nous élever au-dessus de notre perception des choses, nous nous enfoncions en elle pour la creuser et l’élargir. Supposez que nous y insérions notre volonté, et que cette volonté se dilatant, dilate notre vision des choses (Bergson, « La perception du changement. » In La pensée et le mouvent, PUF, coll. « Quadrige Grands texes », 2009, p. 148).
この引用は、ベルクソンが一九一一年五月二六・二七日にオックスフォード大学で行った講演原稿の一節である。
諸事物の知覚を越えた高みに自分を置こうとするかわりに、知覚の中に深く入り込み、知覚を穿ち、知覚を拡張することを考えてみよ。知覚の中に私たちの意志を挿入し、その意志が自己拡張し、私たちの諸事物の見方を拡張することを考えてみよ。そうベルクソンは提案する。
この一節は、ベルクソン哲学の方法である直観の重要な定式化の一つになっている。ベルクソンによれば、それまでの哲学はいずれも恣意性を含んだ何らかの概念化によって知覚世界を貧困化するという結果に終わっていた。それらに対して、知覚世界の質的拡張としての直観を方法とする新しいタイプの哲学は、そのような弊に陥らずに、過去の哲学が発生させてきた偽問題から私たちを解放してくれる。