昨日の記事で取り上げたベルクソンのコレージュ・ド・フランスでの1904-1905年度講義『自由の問題の変遷』第一回目の講義の終わり(op. cit., p. 31-32)に、ベルクソン独自の哲学史観が印象深い比喩によって簡潔に提示されている。
ベルクソンによれば、西洋哲学史において、必然性の観念の変遷・進化は漸進的・連続的であるのに対して、自由の直観はむしろ爆発的・突発的な現われ方をする。自由か必然かという対立は、二つの理論的立場の対決的な議論という形を取ることはなく、必然主義を主張する学説が自由論を自説のシステムの中への吸収を試みるという形をつねに取る。必然主義の学説はその内部で自由に一定の定義を与えようと努力するが、実際にはその定義は必然性に何らかの仕方で還元されてしまう。
そこで、ベルクソンは、歴史の中にその都度現れる自由の新しい直観を、爆発に、あるいは噴火に喩える。それに対して、必然性を主張する学説を、連続的な流水の侵食力に喩える。自由の直観の噴火によってもたらされた思考の溶岩が次第に凝固していくと、流水がそれを今度は徐々に侵食し、仕舞にはすっかり粉砕してしまい、地層として堆積させる。自由の直観は、そのような既存の連続的な堆積化にその都度新しい素材を与えているのだ。
哲学史におけるこのような自由と必然の関係を、爆発・噴火力と侵食・堆積力と関係に比定し、それに基づいてベルクソンは独自の哲学史観を提示する。
通常の哲学史では、長い時間をかけて作用する侵食・堆積力の結果として得られたもののみを諸観念の変遷・進化の歴史と見なしている。ところが、実際は、哲学の歴史の中には、そのような連続史観の哲学史が認めないもう一つの力がある。それが自由の直観の爆発・噴火力である。この力こそが侵食・堆積力にそれが作用するための素材を与え、いわゆる哲学史の内容を形成しているのである。
このような哲学史観に立って、ベルクソンは、西洋哲学史における自由の問題の歴史を講義の中で辿り直していく。