内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

雨上がり、二年ぶりの再会、微睡みの午後 ― 夏休み日記(20)

2015-08-21 05:00:00 | 雑感

 昨日の午前中はずっと雨であった。雨脚も強く、傘を持っていない私は、とても外出する気になれない。鈍色の空の下、ホテルの部屋から見下ろせる東駅前のバスターミナルの路面が雨で光り、行き交う人たちの雨傘が交叉するのをぼんやりと眺めていた。
 その雨も昼には上がり、空が少し明るくなり始める。昼は、ちょうど同じ日に日本を発ち、フランスに三週間ほど滞在する友人家族と、かつて彼ら夫婦がパリに留学生として暮らしていたときに初めて一緒に行ったベルヴィルのタイ料理レストランで会食した。日本を発つ前に予め約束しておいた二年ぶりの再会であった。二年前に鎌倉のお宅を訪ねたときには一歳四ヶ月だったご子息も元気に成長していて、今回は一緒に楽しく会話することができた。本当に良きご家族である。彼らは明日ブルターニュに発つ。
 レストランを出ると、午前中は半袖では寒いほどだった気温も上昇し始めているのが肌で感じられた。友人家族と別れた後、ソルボンヌ界隈の本屋をひやかして歩こうとした。まずかつての行きつけの古書店に行ってみた。この店では哲学関係の新古本に定価の半値が付けられていて、パリに暮らしていた頃はよく買った。ところが、哲学関係の本が並ぶ棚が縮小されている。それを見るのは寂しかった。心なしか浮かない顔をした店主が窓外をぼんやり眺めている。こちらはこちらで、やはり前日の疲れが出たのか、本を手にとって見る気になれず、メトロでホテルに戻り、午睡した。
 夕暮れに目覚めて、ホテルの窓から空を見上げれば、青空が広がっている。ミネラルウォターを一本買いに外に出る。路面はもうすっかり乾いている。風はまだひんやりとしていて、寝覚めの肌に気持ちいい。
 今日は、かつての勤務校から車で十五分ほどのところにあるゴッホ終焉の地 Auvers-sur-Oise を、北駅から電車に乗って訪ねる。ゴッホ兄弟が眠る墓地など、ゴッホゆかりの場所を案内する。天気予報によれば、晴れ、気温も日中は三十度まで上がる。良き一日の吉兆である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


パリ郊外の快適なドライブ、しかし、パリは一筋縄ではいかない、長い一日 ― 夏休み日記(19)

2015-08-20 08:06:47 | 雑感

 昨日は、かなり盛り沢山な一日だった。
 朝八時に北駅地下の駐車場からレンタカーで出発。九時には最初の目的地シュヴルーズの谷に着く。ポール・ロワイヤル修道院の博物館もシュヴルーズの谷を一望の下に見渡せる Château de la Madeleine(十一世紀から十四世紀に建てられた中世の城塞の遺跡。見学は無料)も開門は十時からなので、車と徒歩で近くを散策しながら十時を待つ。
 城塞を観てから、博物館へ。週末以外遺跡は公開されていないので、修道院の博物館周囲の広大な庭から修道院の遺跡を見下ろしながら、早めに昼の弁当を軽く食べる。
 博物館見学後、そこから車で十五分くらい南に下ったところにある Abbaye de Vaux de Cernay (かつてはシトー会の修道院であったが、現在は残された建物と遺跡を改修してホテルとレストランになっている。それら建物・遺跡とよく調和した広大な庭園の変化に飛んだ景観美が見事。こんなところで一週間くらいシンポジウムでもしたいものである)を少し散策。
 そこからさらに車で二十分ほど南下して、ランブイエのお城(残念ながら、現在改修中で大半は白い幕で覆われている)と庭園を見学。
 そこから方向を一転して北東に向かい、最後の目的地である La ferme de Viltain に急いで向かう。ここは広大な農場に多種・多様な野菜・果物が栽培されていて、利用客は自由にそれを収穫できる。収穫した分だけを出口にある販売所で計量してもらって代金を払う。一般の店で買う野菜・果物よりはるかに新鮮で安くて美味。家族連れも多い。自分の手で苺を摘んだり、林檎をもいだりするのは、子どもたちにとっても楽しい。少しくらいなら、収穫した果物や野菜をその場で「ただで」かじってしまったっていい。屋根付きの市場も併設されていて、その農場の収穫物や加工食品なども買える。
 ここまでは、ちょっと駆け足ではあったが、まあ予定通りであった。レンタカーの返却時間の午後七時まで残り一時間に迫ったところで、農園を後にする。パリの北駅付近に到着したのが七時五分前。やれやれ間に合ったかとホッとする。が、甘かった。パリで物事がそう思い通りに運ばないことを忘れていた。
 そもそも駐車場等の入口などの表示は、その付近について不案内な人たちのためのものであるはずである。わかりやすいことがその第一の設置条件たるべきである。ところが、その表示が不親切極まりない上に、後からできた建物や茂った樹木等のせいで、それが車に乗った状態ではほとんど見えない位置にあったりする。その上、駅周辺は一方通行が張り巡らされ、来た道をそのまま引き返すことができない。おかげで北駅地下の駐車場入口を見つけるのに周囲を何回もグルグル回るはめになった。
 それでもやっとのことでレンタカーを返すべき北駅地下駐車場の入口を見つけてホッとして、その目の前まで車で来ると、なんと入口が閉鎖されているのである。
 車から降りて、掲示を見ると、「当入口は工事のため閉鎖中。もう一つの入口は利用可」と、(もちろんフランス語で)書いてあり、その下にただそのもう一つの入口の住所が記されているだけ。地図もない。カーナビもない。どうやってその入口を探せというのだ。仕方なしに、同乗の留学生を車に残し、レンタカーの受付まで徒歩で問い合わせに行く。以下は受付での会話(の和訳)である。


「駐車場入口が閉鎖されているんだけど」(憮然たる表情であろう私)
「ああ、やっぱりそうでしたか」(受付のアジア系女性と黒人男性の反応。「わかっていたのなら、朝一言言ってくれればいいだろう!」、と心の中で叫ぶ私。しかし、朝の担当とは別人だから、彼らの落ち度ではないよなあ)
「どうすりゃいいんです?」(かなり苛立っている私)
「もう一つの入口から入ってください」(冷静なアジア系女性)
「それってどこ?」(怒鳴りたいのを必死で抑える私)
「ここですが、この付近は一通だらけで、ちょっと道順が複雑です」(と言いながら、アジア系の受付の女性は、やおら取り出した地図にラインマーカーで道順をなぞりながら、丁寧に説明してくれる。「この地図を閉鎖された入口に貼っておくとか、気がまわらないのかねえ」と呆れつつ、もう怒る気力もなく、その地図をもらって車に戻る。)


 この後、同乗の留学生に地図を見ながらナビゲーションしてもらって、やっとそのもう一つの入口を見つけ、駐車場に入ることができた。メデタシメデタシ...ではないのである。
 地下六階がレンタカー専用の階なのだが、その階まで降りても全然空きがないのである。どこにも駐車しようがない。係員を呼び止めて聞くと、「地下五階に行け」と言う(「だったらそう表示しておけよ」、もう泣きたくなる)。
 その地下五階はガラガラで、どこに止めたらいいのかとまどうほど。知るか、あとはお前たちで探せ、とばかり適当に止めて、鍵を受付に返す。
 さあ、後は今日の締め括りのレストラン(ここも午後七時半に予約を入れてあったが、駐車場のことで間に合いそうになかったので、電話で一時間予約を遅らせておいた)に行くだけだと、北駅から東駅に徒歩で移動する。ところが、これは私のまったくの勘違いで、地下鉄五番線に乗るなら、北駅から乗れたのである。しかも、その方が下車する駅に一駅近かったのである(この時点で私はもうほとんどアホになっていた)。
 しかし、何はともあれ、レストランには八時半には到着。このレストラン L'ATLANTIDE は、パリでも指折りの美味なクスクスを食べさせる店で、すでに五回ほど友人・知人や娘と来ている。値段もきわめて良心的、店の人たちの対応も感じがよく、ワインも料理によく合うアルジェリアとモロッコのワインが揃っている。長かった一日を振り返りながらの楽しい会食。終わりよければすべてよし、ってことにしておきますかね。
 Cité Internationale Universitaire に帰る留学生と東駅で別れて、徒歩でホテルに戻ったときには、時計は十一時半を回っていた。
 思い出に残る長い一日であった。




















ビジネスクラスの旅とポール・ロワイヤル修道院までのドライブ ― 夏休み日記(18)

2015-08-19 02:40:40 | 雑感

 昨日十八日夕方にパリの宿泊先に無事着いた。
 空の旅は快適そのものであった。搭乗手続きカウンターで僅かな追加料金でビジネスクラスへのアップグレードを提案されたので、それにした。半個室形式で、完全に横になって寝られるし、食事内容が断然リッチ。上質のワインをたっぷり注いでくれるし、おかわりもできる。最初の食事の後は、すっかりいい気分になって熟睡。目が覚めたら、もうヨーロッパ上空であった。定刻よりも三十分近く早くシャルル・ド・ゴール空港に到着した。
 それぞれ23キロきっちり詰めたスーツケース二つにリュックと肩掛けバッグをぶら下げて、シャルル・ド・ゴール空港からRERのB線で北駅まで移動、そこからはガラガラと重いスーツケース二つを押して東駅まで歩く(地上に降り立った瞬間から、本来のプアーな現実世界)。東駅の上にあるホテルにしたのは、二十二日ストラスブールに帰る日に荷物の移動で苦労しないため。三階にあるホテルから地階に降りればもうそこは駅という超便利なロケーションだけが取り柄の三ツ星ホテル。
 今日は朝からレンタカーを借りて、パリの南西シュヴルーズ(Chevreuse)の谷にあるポール・ロワイヤル修道院(Port-Royal-des Champs)までドライブ。来月日本に帰る留学生の一人を修道院とその周辺地区まで案内する。この辺りはパリ近郊で私のお気に入りの場所の一つ。パリ在住中は、日本からいらっしゃった先生方や友人たちをよく案内した。パリから車で一時間ほどだが、谷間には長閑な田園風景が広がり、中世の城塞やポール・ロワイヤル修道院をめぐる十七世紀の歴史の舞台としても興味深い。ちょっと軽めの日帰りドライブにはお手頃である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


遠ざかる「故郷」― 夏休み日記(17)

2015-08-18 06:15:00 | 雑感

 大都会の住宅街に生まれた者にとって、生まれ育った土地を「故郷」と違和感なく呼ぶことができるのだろうか。
 私が生まれる遥か前から近所にあった神社仏閣は、今もそこにある。毎日夕暮れまで遊び呆けていた幼少期を思い出させる思い出の場所や風景も、僅かだが、まだ残っている。幼な馴染みと呼べるような付き合いはもうないが、青年期に一緒に遊び回った友人たちの中にはまだ同じ地域に暮らしている者もいる。それらの友人たちと久しぶりに再会すれば、笑いの絶えない楽しい思い出話に花が咲く。
 しかし、「故郷」が「いつでもそこに帰って来ることができる場所」であるとするならば、私にはもはや「故郷」はない。それはほとんど空間的広がりのない点に収縮するかのように遠ざかりつつある。
 とはいえ、まったく己の意志とはかかわりなく、人災や天災によって生まれ故郷を破壊され、そこにもはや二度と戻れなくなってしまった本当の故郷喪失者の方たちの過酷な人生に引き比べれば、私は何を失ったわけでもない。
 今、午前六時十五分。もうすぐ羽田まで行くタクシーが迎えに来る。
 今日、私にとって仕事と思索の場所であるフランスに「帰る」。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


東京高輪東禅寺、先祖の墓に参る ― 夏休み日記(16)

2015-08-17 07:15:00 | 雑感

 昨日、日曜日の日盛りの午後、港区高輪にある東禅寺に独りで墓参した。父方の祖父母までの四代の墓である。当家の八代目から十一代目までの墓である。
 私が前回墓参りに来たのは数年前のこと。母は亡くなる昨年まで少なくとも年に一度は墓参していた。今年は三月に妹が墓参に来ている。
 鬱蒼とした森のように樹々に覆われた斜面に墓地は広がっている。当家の墓は、椎の巨木の下にある。落ち葉が墓石周囲に散っていた。墓石を囲む敷地を取り囲む膝ほどの高さの御影石の塀の左右の門柱の側面に、まるで門番のように、蝉の抜け殻が残っていた。
 蝉時雨がまるでシャワーのように降り注ぐ中、明らかに周囲より気温が低い樹影の下、人一人いない墓地で血に飢えた蚊たちの総攻撃の犠牲となりつつ、汗をポタポタと垂らしながら、落ち葉を掃き出し、墓石に水をかけてタワシで洗い、線香を立て、合掌し、長年の無沙汰を詫び、先月の母の納骨を報告した。
 八代目護信の没年は、安政六年(1859)、行年四十九歳と先祖書にある。天正二年(1574)生まれの初代信元から八代目までは、備前岡山藩に大工頭として仕える下級武士であった。信元が元和二年(1616)当時まだ因幡鳥取藩主だった池田光政公に召し抱えられたときの俸禄は十五石四人扶持。幕末八代目次男蟻一が家督を相続し、九代目となり、父親と同名の護信を名乗る。先祖書には、「祖先ヨリ當家ハ代々同職ノ外他ニ轉職ヲ許ササルノ制ナリシカ天下ノ趨勢漸ク一變シ遂ニ明治維新ノ政トナリ轉職トナレリ」と注記がある。東京に出、帝国陸軍の軍人となる。十代目の曾祖父も同様。
 十一代目祖父朋信(筆名鵬心)は、明治十八年(1885)生まれ、一中・一高を経て、東京帝国大学文学部哲学科(美学・美術史専攻)を明治四十三年に卒業している。読売新聞記者、三越(主に雑誌「三越」編集)、資生堂嘱託などを経て、東京家政大学教授となる。美術評論関係著書が十冊ほどあり、建築評論の日本における草分けと言われている。フランス人画商と協力して、日仏芸術社を起こし、日仏の芸術交流にも尽力する。
 十二代目の私の父は、慶応義塾大学経済学部卒。戦後、国際貿易の分野、特に当時まだ国交のなかった東欧諸国との貿易促進に力を尽くした。しかし、四十代半ばで病に倒れ、四十九歳の誕生日の前日に他界した。クリスチャンだったため、臨済宗東禅寺には納骨を拒否され、やむなく都営の霊園に別に墓を立てた。母も今は四十年前に死に別れた夫の脇に眠っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


忘却のエチカ、失われた理想を求めて ― 夏休み日記(15)

2015-08-16 08:07:53 | 哲学

 何もかもいつまでも記憶していることができれば、それがつねに人間にとって理想的なことなのであろうか。自らが犯した罪を、他者によって犯された罪を、いつまでも忘れないでいることが最も正しい生き方なのであろうか。そのための努力を怠らないことが最も優れた倫理的態度なのであろうか。
 戦争の記憶は、人類の罪として、少なくとも人類が滅亡するまでは、人類自身によって想起され続けるべきだろうと私も考える。そして、「フクシマ」もまた...
 しかし、私たちの心がすっかり罪の記憶で満たされ、そのことが私たちに「理想」を語ることを忘却させている、そうすることを妨げている、あるいは、せいぜい何か恥ずかしげにこっそりと聞き取れないような声でそうするしかなくなっているとすれば、どうであろうか。
 記憶の次世代への継承は、無論、現在の私たちの責務であろう。しかし、過去の罪を忘れず、二度と過ちを繰り返さないと誓い、そのために常に細心の注意を払うだけで、「未来」を切り開くことができるのだろうか。
 いつまでも過去にしがみつかず、過ぎ去ったことは「水に流し」、未来に向かって体を伸ばせ、などと、無責任な激励を推奨したいのではない。
 過去の「忘却」を現在の自己の権力意志や物質的欲望のために利用する狡猾な悪霊たちは常に世界を跋扈している。悪の商人たちばかりではない。その国を代表する大企業の中に公然と大量殺人兵器を開発・生産・輸出する企業が名を連ねている先進諸国が一つや二つではないことを私たちは知っている。
 二十世紀が人類史上最も多くの人間が人間によって殺された世紀になるかどうか、二十一世紀をまだ十五年ほどしか生きていない私たちは予測することさえできない。戦争ばかりが大量に人を殺すわけではないことを私たちはもうよく知っている。
 空疎な大言壮語を慎み、偽問題に惑わされずに、真に解決すべき問題を順序立てて一つ一つ黙々と解決していく誠実さと謙虚さが日々の exercice spirituel には必要であろう。
 しかし、忘れ去るにはあまりにも重大な罪にもかからわず、その重みにほとんど押し潰されそうになりながら、未来に実現されるべき「理想」を再び見出し、それを次世代に託すべく語り続ける「理想主義的」態度を保持し続けることもまた、同じくらい大切な exercice spirituel であると私は考える。
 そのような「理想主義」の再構築に没頭することによって過去を「忘却」することは、かつて確かにあったことをなかったことにする否認主義とは違う。それは、何があってもあくまでも〈善〉を探求し続ける、一つのエチカである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


記憶を「上手に」想起するために ― 夏休み日記(14)

2015-08-15 08:00:00 | 哲学

 昨夏の今頃、フランスへの帰国を直前に控え、実家で母と妹夫婦と夕食を一緒している時のことだった。何がきっかけだったがもう思い出せないが、母が戦争中の思い出を語り始めた。昭和二十年、戦争末期、母は十四歳の女学生だった。東京の代々木の自宅で爆弾がすぐ隣家に落ちた時のこと、疎開先の沼津で、雨のように投下される爆撃の中を家族が散り散りなって逃げた時のことなど、私たちにとって初めて聴く話だった。そしてそれが結果として母から聞いた最後の戦争体験談となった。
 世界一の長寿国を誇る日本でさえ、後十年も経てば、戦争について実体験を語れる人は一体どれだけ残っているであろうか。体験の記憶の集成と保存が用意周到かつ長期的に可能な仕方でなされるべきなのは言うまでもないだろう。
 しかし、個人の記憶はいずれ遠退き、忘却の淵へと沈む。それはまったく自然なことでさえある。どんなに「生き生きと」あるいは「生々しく」語られた体験でえ、その体験の当事者たちがすべて死に絶えてしまえば、後に残された者たちにできることは、それを間接的に想起することだけである。幸いなことに、進歩し続ける科学技術は、過去の記録の保存・修復・再生のためにも目覚ましい成果を上げつつある。それらが私たちの想起を助けてくれる。
 ところが、その想起を不都合だと考える者たちは、記憶を自ら抑圧するか、思い出そうとする者たちに圧力をかけるか、歴史を「修正」したり「否定」したりする。それら歴史の記憶に対する反力は、無邪気で無抵抗な精神を集団的に操作する「教育」という形で現実化されもする。それはいつの時代にもありうる。これからもそれは同じだろう。
 記憶を「上手に」想起するためには、だから、ただ思い出すだけでは十分ではなく、記憶を抑圧するそれらの反力に対する自覚的抵抗と想起の方法的・技術的実践(exercice)が不可欠なのだ。これも一つの exercice spirituel であり、したがって、哲学の実践そのものにほかならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


『ポストフクシマの哲学 原発のない世界のために』― 夏休み日記(13)

2015-08-14 12:30:39 | 哲学

 一昨日、今月20日付で刊行される『ポストフクシマの哲学 原発のない世界のために』(明石書店)を同書の編者代表の東洋大学国際哲学研究センター長の先生から直に頂戴した。
 同センターは、まさに東日本大震災の年、2011年に設立された。以来、「現実の世界を自分たちの経験の場として哲学的思考を鍛え上げ、それを現実の世界へと返すための活動の一環として」(同書「あとがき」283頁)、「ポスト福島」を一つの課題として掲げ、内外の哲学者・哲学研究者たちの発表と現場で実践的に課題に取り組んでいる人たちの報告とを積み重ね、その四年間の活動の成果を纏めたのが同書である。
 まだ収録された諸論文についてコメントできるほど読んではいないが、一人でも多くの人たちに同書が読まれることを願いつつ、その「あとがき」から二箇所引用する。

 哲学的探求は、目の前の社会的状況を来年どのように変えて行くのかという行政的施策に対してはほぼ無力である。「ほぼ無力」と「ほぼ」という限定をつけたのは次の理由による。つまり、積み重ねられてきた哲学的探求は人々の思考の養分になり、その人々が成果を栄養にして具体的な政治・経済的政策を立案するということはある。言い換えるならば、「ほぼ」という留保は、哲学的探求が将来に関わり、そのようにしていまの現実に関わるときには、探求の成果が既に獲得されていなければならないということを示す。哲学的思索のこの間接性は哲学が「いま、ここ」に対処するためには、「いつでも、どこでも」という視点を介することを示している。「いつでも、どこでも」、つまり、一般的に通用する思考を求めるということは、「いま、ここ」という場をいったんは離れることである。もし、この「離れる」という表現が誤解のもとになるとすれば、哲学的思索は「いつでも、どこでも」成り立つ思考を「いま、ここ」に実在する「私」である個人を通して実現すると言い直してもよい。本書で示されていることの一つは、哲学的思索がどのようにして「いま、ここ」へと赴き、そして「いつでも、どこでも」という境地を介して、「いま、ここ」に帰ってくることができるのかということである。(284頁)

哲学を研究する者が実践的な支援者の経験から学びながらどのように「いま、ここ」を越えて、将来に向けてのしっかりした議論を提供できるのか。これが私たちの問いであった。この書物の軸を形成する哲学に携わる人たちの論考が、コラムを書いた人たちの経験と思いをどのように汲み取りえたのか。私たちが目指したところの一つはここにあった。もっと一般的に言えば、実経験から学びながら自らの哲学を先に進め、それを社会に返すということになる。[…]本書の試みは、実践的課題を経験の場としながら哲学研究を行なうという方法の第一歩である。この方法がさらに変更されながら試行されていくことを願う。(285頁)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


創作にかかった時間と同じ時間をかけて読む ― 夏休み日記(12)

2015-08-13 12:30:00 | 読游摘録

 ほとんどの場合、読者は、作者がある一つの作品の創作にかけた時間よりもはるかに短い時間でその作品を読んでしまう。著者畢生の大著と言われる作品であっても、集中して読めば数日で読めてしまうだろうし、毎日規則的には読めなくても、暇を見つけて少しずつ読み進めれば、千頁を超える大作でも大抵は数ヶ月で読了できるだろう。面白くて、読み終わってしまうのが残念に思われるような作品でも、だからといって、いつまでも読了を先延ばしすることもめったにないだろう。
 もちろん、忙しくで読書の時間が思うように取れないとか、作品そのものが難解でなかなか先に進めず、結果として一年あるいはもっとかかってようやく読了という場合もあるだろう。
 もう一つの読み方として、作者がその作品の書き始めから完成までにかかったのと同じ時間をあえてかけて読むという読み方があると私は考える。それに値する作品がある。すべての名作・傑作はそうするに値するとも言えるが、それらすべてをそのように読むだけの時間が読者に与えられているわけでもない。すべての作者がそのように自作が読まれることをいつも望んでいるわけでもない。一方、特にそのような読み方を作品そのものが読者に密かに求めてくるような作品がある。
 こう言いながら、私が今特に念頭に置いているのは、リルケの『マルテの手記』である。リルケはこの作品を一九〇四年に起筆し、一九一〇年にようやく完成させている。原書でも、文庫版の邦訳でも、三百頁前後であるから、決して大著ではない。読もうと思えば、二三日で読めるだろう。しかし、このドイツ語の詩的散文の精華の彫琢のためにリルケが経験しなければならなかった孤独な苦悩の時間的重量を無視してこの作品を読むことにはほとんど意味がないと私は思う。
 同作品完成の翌年、もはや何も書けないのではないかという恐怖と戦っていた頃、リルケがドゥイノからルー・アンドレアス・サロメに宛てた一九一一年十二月二十八日付の手紙の一節を引く。

たぶんあの本は、地雷に点火するように書くべきであったろう。書き終わった瞬間にはるか遠くへ跳びのくべきだったろう。しかし、そのためには私は今もあの本に対して愛着を持ちすぎていて、言いようもない貧困を受け入れる決心がないのだ。しかし、それを受け入れることは、私の決定的な仕事であろうとも考える。私は私の持っている資本のすべてをこの見こみのない事に投入してしまった。しかし、その資本の価値は、この損失によってのみ明瞭になる性質のものであった。私はマルテ・ラウリッツを破滅と感じるよりは、むしろ天国のどこか忘れられた遠い場所への不思議な暗い昇天であるように、長いあいだ感じたのをおぼえている。(岩波文庫版訳者解説よりの引用)

 マルテの破滅へと至る受苦が「天国のどこか忘れられた遠い場所への不思議な暗い昇天」をもたらすことを真に理解するためには、作品が完成するまでに要したのと同じ時間をかけて、作者と作品との受苦の時の重みを生き直してみる必要があるのではないかと私は自問する。そのような読書経験は、しかし、けっしてただ苦痛なだけの義務ではなく、一つの具体的な倫理的実践でもあると私は考える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「もののあわれを知る」、あるいは「待ちつつ読む」― 夏休み日記(11)

2015-08-12 13:41:11 | 雑感

 一つの文学作品の読み方にもいろいろあるだろう。より限定的に言えば、読む速度にも様々ありうるだろう。
 昨日の記事の最後に引用した本居宣長の「紫文要領」の歌物語論に従えば、一つの物語を読むことは、その物語が人の実の情を細やかに書き表しているところを読み手も悉に辿り直すことによって「もののあわれを知る」ことがその目的となるから、物語の展開に読み手もいわば呼吸を合わせなくてはならない。そのような読み方をするとき、読み手が自分の都合で読みの速度を変えることはできない。人の心の動きにも緩急があるとしても、人の実の情に寄り添うためには自ずと時間を必要とするだろう。時のうちで情が熟するのを待つ姿勢が求められるだろう。忍耐というのとは、ちょっと違う。生き物が育つのを急かすことはできないのだから自ずと育つのを待つときのような、もっと自然な心の構えとして、「待ちの姿勢」が必要なのだと私は思う。
 もちろん、読み手の精神の成熟度も他者の情の理解の速度と深度を変化させる媒介項であるには違いない。誰もが同じ作品を同じ速度で読まなければならないわけでもない。誰もが同じ作品を同じように理解できるわけでもない。
 しかし、人の情の細やかな動きを「待ちつつ読む」という姿勢には、単なる読みの技法とは違う、何か倫理的な含意がないであろうか。それは作業効率や単位時間あたりの情報量を競うような世界への抵抗の姿勢でもあるだろう。そのような世界にはけっして見出し得ない、物に触れて動く人の実の情である「もののあわれ」の時間をゆっくりと生きること、それが一つの文学作品を「待ちつつ読む」ことなのだと私は考える。