内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

東京高輪東禅寺、先祖の墓に参る ― 夏休み日記(16)

2015-08-17 07:15:00 | 雑感

 昨日、日曜日の日盛りの午後、港区高輪にある東禅寺に独りで墓参した。父方の祖父母までの四代の墓である。当家の八代目から十一代目までの墓である。
 私が前回墓参りに来たのは数年前のこと。母は亡くなる昨年まで少なくとも年に一度は墓参していた。今年は三月に妹が墓参に来ている。
 鬱蒼とした森のように樹々に覆われた斜面に墓地は広がっている。当家の墓は、椎の巨木の下にある。落ち葉が墓石周囲に散っていた。墓石を囲む敷地を取り囲む膝ほどの高さの御影石の塀の左右の門柱の側面に、まるで門番のように、蝉の抜け殻が残っていた。
 蝉時雨がまるでシャワーのように降り注ぐ中、明らかに周囲より気温が低い樹影の下、人一人いない墓地で血に飢えた蚊たちの総攻撃の犠牲となりつつ、汗をポタポタと垂らしながら、落ち葉を掃き出し、墓石に水をかけてタワシで洗い、線香を立て、合掌し、長年の無沙汰を詫び、先月の母の納骨を報告した。
 八代目護信の没年は、安政六年(1859)、行年四十九歳と先祖書にある。天正二年(1574)生まれの初代信元から八代目までは、備前岡山藩に大工頭として仕える下級武士であった。信元が元和二年(1616)当時まだ因幡鳥取藩主だった池田光政公に召し抱えられたときの俸禄は十五石四人扶持。幕末八代目次男蟻一が家督を相続し、九代目となり、父親と同名の護信を名乗る。先祖書には、「祖先ヨリ當家ハ代々同職ノ外他ニ轉職ヲ許ササルノ制ナリシカ天下ノ趨勢漸ク一變シ遂ニ明治維新ノ政トナリ轉職トナレリ」と注記がある。東京に出、帝国陸軍の軍人となる。十代目の曾祖父も同様。
 十一代目祖父朋信(筆名鵬心)は、明治十八年(1885)生まれ、一中・一高を経て、東京帝国大学文学部哲学科(美学・美術史専攻)を明治四十三年に卒業している。読売新聞記者、三越(主に雑誌「三越」編集)、資生堂嘱託などを経て、東京家政大学教授となる。美術評論関係著書が十冊ほどあり、建築評論の日本における草分けと言われている。フランス人画商と協力して、日仏芸術社を起こし、日仏の芸術交流にも尽力する。
 十二代目の私の父は、慶応義塾大学経済学部卒。戦後、国際貿易の分野、特に当時まだ国交のなかった東欧諸国との貿易促進に力を尽くした。しかし、四十代半ばで病に倒れ、四十九歳の誕生日の前日に他界した。クリスチャンだったため、臨済宗東禅寺には納骨を拒否され、やむなく都営の霊園に別に墓を立てた。母も今は四十年前に死に別れた夫の脇に眠っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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