内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「もののあわれを知る」、あるいは「待ちつつ読む」― 夏休み日記(11)

2015-08-12 13:41:11 | 雑感

 一つの文学作品の読み方にもいろいろあるだろう。より限定的に言えば、読む速度にも様々ありうるだろう。
 昨日の記事の最後に引用した本居宣長の「紫文要領」の歌物語論に従えば、一つの物語を読むことは、その物語が人の実の情を細やかに書き表しているところを読み手も悉に辿り直すことによって「もののあわれを知る」ことがその目的となるから、物語の展開に読み手もいわば呼吸を合わせなくてはならない。そのような読み方をするとき、読み手が自分の都合で読みの速度を変えることはできない。人の心の動きにも緩急があるとしても、人の実の情に寄り添うためには自ずと時間を必要とするだろう。時のうちで情が熟するのを待つ姿勢が求められるだろう。忍耐というのとは、ちょっと違う。生き物が育つのを急かすことはできないのだから自ずと育つのを待つときのような、もっと自然な心の構えとして、「待ちの姿勢」が必要なのだと私は思う。
 もちろん、読み手の精神の成熟度も他者の情の理解の速度と深度を変化させる媒介項であるには違いない。誰もが同じ作品を同じ速度で読まなければならないわけでもない。誰もが同じ作品を同じように理解できるわけでもない。
 しかし、人の情の細やかな動きを「待ちつつ読む」という姿勢には、単なる読みの技法とは違う、何か倫理的な含意がないであろうか。それは作業効率や単位時間あたりの情報量を競うような世界への抵抗の姿勢でもあるだろう。そのような世界にはけっして見出し得ない、物に触れて動く人の実の情である「もののあわれ」の時間をゆっくりと生きること、それが一つの文学作品を「待ちつつ読む」ことなのだと私は考える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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