内的自己対話-川の畔のささめごと

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レヴィ・ブリュール『原始的心性』を読む(16)― 両大戦間の二人の知的巨人

2015-06-21 15:07:00 | 読游摘録

 レヴィ・ブリュールの『原始的心性』は、その刊行直後から、フランスのみならず広くヨーロッパ諸国でよく読まれた。刊行年である1922年から1947年までの四半世紀の間に十四版を重ねている。第二次大戦後、それとは対照的に、特にレヴィ・ストロースの名声の陰に隠れてしまってからは、1960年、1976年、2007年にそれぞれ異なった出版社から刊行されているだけである。今私の手元にある新版(2010年)が出て、ようやく再び簡単に入手できるようになった。
 レヴィ・ブリュール(1857-1939)は、ベルクソン(1859-1941)と同時代人であるばかりでなく、両大戦間に次世代の知識人たちに多大な影響を与えたという点において、ベルクソンとともに両大戦間の時代を代表するヨーロッパ知識人であった。二人はまた長年に渡り互いを尊敬しあう友人同士でもあった(École Normale Supérieure では、レヴィ・ブリュールは、ベルクソンの二年先輩に当たる。1928年、文学雑誌 Nouvelles littéraires がベルクソン特集号を企画したとき、レヴィ・ブリュールは、« Bergson à l’École Normale » というエッセイを寄稿し、その中でベルクソンを「哲学者の王者」(« prince des philosophes » と呼んでいる。因みに、ドゥルーズは、Qu’est-ce que la philosophie ? の中で、スピノザにこの称号を与えている。『小学館ロベール仏和大辞典』には、括弧して「アリストテレス」とあった)。
 『原始的心性』が与えた知的影響・思想的衝撃は、さまざまな学問分野に見られるが、今回の連載では、哲学の分野に限って簡単に見ておくにとどめる。今日の記事では、ベルクソンのレヴィ・ブリュール批判に一瞥を与え、明日の記事では、レヴィ・ブリュールの人類学的研究に対するフッサールの関心と現象学におけるその受容について、その要点を確認する。
 ベルクソンの『道徳と宗教の二源泉』(以下、『二源泉』と略す)は、『原始的心性』から十年後の1932年に刊行される。この最後の大著の中で、ベルクソンは、少なからぬ頁数をレヴィ・ブリュールの『原始的心性』の分析に割いている。特にそれが目立つのは、第二章「静的宗教」である。
 そこでのベルクソンの分析は、レヴィ・ブリュールの「原始的心性は偶然を知らない」(« la mentalité primitive ignore le hasard »)というテーゼに集中している。ベルクソンは、レヴィ・ブリュールが原始的心性と文明化された心性との乖離を強調しすぎている点を批判する。自分たち自身の日常の経験を内省して見れば、私たちは「未開人」たちとそれほど違わないとベルクソンは言う。例えば、ルーレットの玉がある数字のところに止まりかけているのを見ながら幸運を祈るときなどがそうである(遠い異国での試合をテレビで観戦しながら、贔屓の選手やチームの勝利を祈るのも同じ心性からであろう)。
 ベルクソンは、不測の事態や危険に際しての原始的心性による対処の仕方についてのレヴィ・ブリュールの記述を分析しながら、その因果性についての分析をさらに延長する。未開民族の狩猟者をルーレットに賭ける人に引き比べながら、どちらの場合も、ヴァーチャルな「存在物」(entité)に対して加護を求めている点で同じだとベルクソンは言う。狩猟者は「動物の精神」に、ルーレットに賭けている人は「ゲームの運」に、それぞれいわば「神頼み」しているわけである。このようにして、私たちは、自分の側の意図と狙っている目的物との間の隔たりを埋めようとしている。しかし、これらの意図は、それがヴァーチャルなものに依存しているという意味で、中身が欠けている。言い換えれば、ありもしないものが現実世界で作用することを期待しているのである(期待していた結果が実現したときだけ、私たちは「祈りが通じた!」と叫ぶであろう)。
 ベルクソンは、レヴィ・ブリュールの「超自然的因果性」(causalité surnaturelle)を「意図的因果性」(causalité intentionnelle)に置き換える。つまり、何か超自然的なものが自然の中に介入してある結果をもたらすと考える原始的心性をレヴィ・ブリュールが見たところに、ベルクソンは、ある意図によってその存在が想定されたヴァーチャルな何ものかが現実世界に作用を及ぼすことを期待するという、現代人の生活の中でも至る場面で観察されうる心的傾向を見ているのである。
 そして、ベルクソンは、この方向でさらに遠くまで議論を展開する。つまり、ある意図によってその存在が想定された何ものかが現実世界に作用を及ぼすというものの見方は、科学的思考にさえ見出だせると考えるのである(例えば、一つの仮説に基づいて実験を行う場合などを考えればいいだろう)。
 このような心的傾向に関するかぎり、宗教と科学に違いはない、いずれの場合も、行動の必要に応じて「断片的な意図」(« intentions fragmentaires »)を設定することで対処している、と見るわけである(この辺り、正直に申し上げますが、あまり自信を持って説明できていません。まったく間違っているかもしれません)。
 ベルクソンによれば、唯一完全な意図を持っているのは神秘主義者だということになる。したがって、区別すべきなのは、前論理心性と論理的心性とではなく、「静的宗教」と「動的宗教」とであるというのがベルクソンの主張である。
 このベルクソンによるレヴィ・ブリュールの批判的読解は、当時はほとんど反響がなかったのであるが、1962年、レヴィ・ストロースは、『今日のトーテミズム』の中で、このベルソンの知覚図式の分析の中に、トーテミズムの問題についての、レヴィ・ブリュールの分有理論とデュルケームの集団的表象理論との間を行く、エレガントな解決方法を見出している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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