内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

教室は、毎日が一期一会、今日も講義ができて本当に幸いでした

2017-09-28 20:59:55 | 講義の余白から

 昨日の記事では、独白的ではありましたが、少し「毒を吐いて」しまいました。そういうことは拙ブロクでは極力したくないと常日頃思ってはいるのです。そんなことをしたって何もならず、後味が悪いだけですから。案の定、昨晩は気分悪かった。飲んでも酔えなかった。
 それでも、昨日書いたことを撤回する気は一切ありません。
 今日は、古代文学史の一コマだけのために大学に出向きました。個人的な感覚ですけれど、いいんですよね、この感じ。講義の直前まで自宅で最後の最後まで準備をしてから、「いざ」って感じで、その一コマのためだけに教室に向うのです。自転車でキャンパスまで疾駆するのです。
 私にとって、教室は、いつも、一期一会です。
 講義のはじめに、心のなかでいつもこう呟いています。
 今日、教室に来てくれてありがとう。私も、今日、君たちに伝えうるだけのことを伝えたくて、この場に来たよ。じゃあ、はじめようか。
 彼らが提出してくれた宿題それぞれについての講評はこちらからの挨拶。それを教室の全員で共有することで、互いに学べることがあるといいなって思いながら。
 そして、講義の本題に入ります。でも、今日は、その前に、モーリス・ブランショの「起源」についての下掲の考察をまず読ませました。

Il y a donc toujours une lacune : comme si l’origine, loin de se montrer et de s’exprimer en ce qui sort de l’origine, était toujours voilée et dérobée par ce qu’elle produit et, peut-être alors, détruite ou consumée en tant qu’origine, repoussée et toujours davantage écartée et éloignée, soit comme originellement différée. Jamais nous n’observons la source, jamais le jaillissement, mais seulement ce qui est hors de la source devenue la réalité extérieure à elle-même et toujours à nouveau sans source ou loin de la source.

Maurice Blanchot, « Naissance de l’art » dans L’amitié, Paris, Gallimard, 1971, p.18-19.

 このテキストを注解しつつ、起源への遡行不可能性という問題についての注意を促した上で、日本文学の起源という問題の考察に入りました。
 明朝、また同じ学生たちに古代史の講義をします。でも、明日は明日。幸いにも恵まれた、まったく新しい一日。その掛け替えのない一日の朝の二時間に君たちに伝えたいことの最終的な準備を今しているところです。











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