内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

国家は原理的に〈神話〉を必要とするのか

2019-03-31 23:59:59 | 講義の余白から

 今日の記事は、その件名に掲げた問いについて考えるための二つの資料を引用するだけである。
 第一資料は、エルンスト・カッシーラーの『国家の神話』(The Myth of the State, 1946)の第一章の冒頭である。

 われわれは、過去三十年間、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間の時期に、政治生活と社会生活の深刻な危機を経験したばかりでなく、幾多のまったく新しい理論的な問題にも直面してきた。われわれは政治的思惟の諸形式が急激に変化するのを体験した。諸々の新たな問題が提起され、そして新たな解答が与えられた。十八世紀および十九世紀の政治思想家たちにとって未知であった諸問題が突如として前景に現われてきたが、おそらく近代政治思想のこの発展において、もっとも重大な、そしてもっとも気遣わしい特徴は、新しい力、すなわち神話的思惟の力の出現であろう。神話的思惟は、現代の若干の政治制度において、明らかに合理的思惟にたいして優位を占め、それは束の前の激しい闘争の後に、明白かつ決定的な勝利を獲得したかのようであった。この勝利はどのようにして可能であったか。政治的地平線にかくも突如として現われ、そしてある意味では精神的および社会的生活の性格に関する従来の一切の観念を逆転させるようにみえた、この新たな現象を、どのようにすれば説明できるだろうか。(宮田光雄訳『国家の神話』講談社学術文庫、2018年)

 第二資料は、嘉戸一将の『北一輝―国家と進化』(講談社学術文庫、2017年、初版2009年)である。より正確には、本書からの孫引きである。そうすることでかえって論点を浮かび上がらせることができると考えてのことだ。第三章「北一輝と革命」の第四節「絶対者をめぐって」から抜粋する。

 真理を保証する絶対者とは何か。国家論や制度論において言えば、それは制度的世界の創造主である。
 例えば、創造的行為について語ったフランスの詩人・批評家ヴァレリーは、精神による創造的行為は、単にその行為が偶然や気まぐれであることに満足することなく、自然における創造がそうであるように原因を要求し、自らが出現した後で原因や合理性を求めて過去に遡行すると言う。事後的に原因を生み出すことは時間の顚倒であり、そのためそれは過去の捏造であり虚偽であるが、にもかかわらず因果法則であることを標榜するかぎりにおいて合理性の思想である。これをヴァレリーは「神話」と呼ぶ。[中略]要するに、創造的行為が意味あるものであるためには「神話」を必要とせざるをえないのである。[中略]
 この問題を、国体論批判と社会主義的な制度の準拠の「構想」という立場から取り上げたのが、三木清である。[中略]ヴァレリーの神話論を踏まえて、三木は「神話」が時間という客観的な次元に属するのではなく、主観的な次元に属することを強調する。この主観的な次元に属する「神話」の「論理」を、三木は「構想力の論理」と呼ぶ。ここで重要なのは、三木が「神話」論を制度論に移調していることである。すなわち、「この社会の制度そのものがすでに何等か神話的意味を含むと云ふことができる。我々にとつて問題であるのは現在も存在しまた創造されるやうな神話である」(『三木清全集 第八巻』岩波書店、一九六七年、二八頁)。

 戦後に出版されたカッシーラーの『国家の神話』の上掲の問いに対して、それに先立つこと九年、一九三七年に原理的な解答を試みているのが三木清の「構想力の論理」であることがこの一節を読むだけでわかる。












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