内的自己対話-川の畔のささめごと

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「仮の世は、かりの栖こそよけれ」― 神沢杜口における引越しの美学

2021-01-22 23:59:59 | 読游摘録

 立川昭二の『日本人の死生観』を読むまで、私は神沢杜口を知らなかった。本書に取り上げられた十二人の人物の中では、知名度はもっとも低いと言っていいだろう。しかし、神沢杜口に充てられた一章は生彩に富んでいる。西行、鴨長明、兼好法師にそれぞれ割かれた最初の三章は、いずれの場合も限られた紙数の中で扱うには対象が大きすぎて、彼らの思想はやや図式化・単純化されてしまっているきらいがあるのに対して、神沢杜口ははるかに「常識人」であり、それだけ私たちに身近な存在であり、その考え方にも共感を覚えるところが少なくない人物として活写されている。
 以下、『日本人の死生観』からの摘録である。
 神沢杜口は一七一〇年京都に生まれ、一七九五年に同地で没している。与謝蕪村と親交があったが、前半生はふつうの勤め人であった。十一歳のとき神沢家の養子となり、その家付娘と結婚、二十歳頃に養父の家督を継いで京都町奉行の与力となる。いわば中級公務員である。勤務すること二十年。四十歳頃に病弱を理由に退職し、娘婿に跡を譲る。退職後も京に住み、家禄の一部をいわば年金がわりに生活の資とし、死ぬまでの四十数年、好きな俳諧のほか、『翁草』二百巻の大著をはじめ、膨大な著作の編述に没頭する。『翁草』からは森鴎外が『高瀬舟』『興津弥五右衛門の遺書』の素材を得ており、永井荷風は杜口の執筆姿勢を日記に感動を込めて記している。
 杜口は、四十四歳のときに妻に先立たれている。子どもは五人いたが、うち四人にも先立たれ、末娘が婿養子をとって家を継ぐ。孫は三人生まれたが、二人は亡くなり、一人だけ残った。ふつうならこの娘一家と暮らすはずである。それなのに、男鰥となった杜口はあえて独り暮らしを選択する。今日ならともかく、江戸時代としては稀な生き方である。
 独り暮らしを選んだ退職者ならふつう「終の栖」をさだめて落ち着こうとする。ところが、杜口は頻繁に転居する。「我仮の庵を、そこ爰と住かゆること十八ヶ所」という。死ぬまでの四十二年間に、平均二年半に一度転居していることになる。当然のことながら、それらの家は借家である。「家賃をやればそれだけの主となり、我が身さへかりの世に、自の家他の家と云差別有べきや」というのが杜口の住居についての考え方である。
 以下、一言感想を述べる。
 杜口は、転居と借家のすすめの現実的な理由を、「同じ所に居れば情が尽る」としているが、この「情が尽る」とはどういう意味だろう。飽きる、感性が鈍る、といったほどの意味だろうか。他方、「仮の世は、かりの栖こそよけれ」とも言っているから、単に飽きたから住み替えるというよりも、仮生たる人生にふさわしい暮らし方として、頻繁な転居は、いわば美学的かつ倫理的な要請でもあったのであろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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