内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

和泉式部の「つれづれ」、あるいは存在の空虚と共振する言葉(二)

2019-04-27 12:23:42 | 読游摘録

 『和泉式部日記』には、「つれづれ」という言葉が全部で十六箇所使われている。しかし、そのすべてが「女」(和泉式部)の心情を直接的に表現しているわけではない。最初の用例は、日記のはじめの方に登場する小舎人童の言葉の中である。「宮」(敦道親王)が「女」に送る手紙の中や「女」にかける言葉の中にも出て来る。それらを除いて、女の心事に直接関わる十箇所だけを順に見ていこう。
 最初は、女が宮からの返歌に対して、毎回ではどうかと思い返事しないでいると、宮からまた歌が届いたときに引き起こされた女の気持ちの叙述の中に出て来る。「もともと心深からぬ人にて、ならはぬつれづれのわりなくおぼゆるに、はかなきことも目とどまりて」(「女はもともと思慮深くない人で、まだ経験した事のなかったつれづれの日々が耐えられなく思われていたところだったので、このようにちょっとしたお歌にも目がとまって」近藤みゆき訳、角川ソフィア文庫)、返事の歌を差し上げるというくだりである。
 ここでの「つれづれ」は、恋人であった兄宮を前年に失って以後の、それ以前には経験したことのない無聊の生活を指している。それを耐え難く思っているところに、弟宮の敦道親王からの歌が届き、気を引かれ、「今日のまの 心にかへて 思ひやれ ながめつつのみ 過ぐす心を」(「お心に比べてご想像下さい。兄宮様を失ってから、ずっと孤独と物思いの日々を送っている私の心を」)と返歌する。
 兄宮の喪失は、それまでに経験したことのない深い悲しみと孤独に女を陥れた。その状態がいつ果てるとも知れず続いている状態、それが「つれづれ」である。その「つれづれ」が弟宮とのやりとりで少しは癒やされるかとかすかに期待された。その気持が女に歌を詠ませる。
 ところが、日記に語られる恋物語のその後の顛末が示しているように、二人の関係が深まりゆくにつれ、かえって「つれづれ」も深まってしまう。いかなる慰みによっても、得られるのはつかの間の気晴らしだけ、結果として明らかになるのは、自己存在の「つれづれ」の癒し難さでしかない。












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