内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

和泉式部の「つれづれ」、あるいは存在の空虚と共振する言葉(一)

2019-04-26 23:59:59 | 読游摘録

 「つれづれなるままに、日ぐらし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」という『徒然草』のあまりにも有名な序段は、平安期の古典を前提として生まれた表現であり、最後の「ものぐるほしけれ」を除けば、兼好法師のオリジナルとは言えない。
 『宸翰本和泉式部集』の第三四番歌の詞書は次のとおりである。

つれづれなりし折、よしなしごとにおぼえし事、世の中にあらまほしきこと

 『和泉式部集・和泉式部続集』(岩波文庫新版)の八三五番の詞書は次のとおり。

いとつれづれなる夕暮に、端に臥して、前なる前栽どもを、ただに見るよりは、とて、物に書きつけたれば、いとあやしうこそ見ゆれ、さはれ人やは見る

 確証はないにしても、兼好法師が和泉式部の歌集を読んだ可能性は高く、とすれば、『徒然草』の序段を書くときに、上掲の表現が念頭にあったとしても不思議ではない。それに、類似表現は『堤中納言物語』『藤原長綱集』にも見られる。
 「つれづれ」という語そのものは平安期にしばしば使われており、『伊勢物語』『古今和歌集』『蜻蛉日記』『源氏物語』『枕草子』『大鏡』『栄花物語』など、異なったジャンルの平安期の作品に数百例見られる。
 ここでは、しかし、兼好法師の『徒然草』の序段のオリジナリティーにケチをつけることが目的ではない。それに『徒然草』のオリジナリティーは、言うまでもなく、表現の類似を超えたところにある。今日から数回に渡って私が試みたいのは、来週の修士の演習で読む唐木順三『無常』中の「和泉式部日記」の節の読解の準備として、和泉式部が好んで使った「つれづれ」という言葉によって表されている感情について当たりをつけておくことである。
 『古典基礎語辞典』(角川学芸出版)の「つれづれ」の項の解説には、「これ以上続いてほしくはないと思う状態が単調に続いていて、そこから脱却したい、自分が変化したいと思ってもできず、所在なく、心が晴れないさま」とある。この語義は、和泉式部の作品中の用例にも当てはまる。しかし、このような一般的定義だけでは和泉式部固有の感性に迫りきれない。
 新潮日本古典集成版『和泉式部日記 和泉式部集』の校注者野村精一は、「『つれづれ』は和泉式部の愛用語。単なる退屈ではなく、時の空虚さへの焦燥感を表す」と頭注に記している(九七頁)。この頭注が付された歌の詞書は「つれづれのながめ」、歌そのものは「つれづれと ながめくらせば 冬の日も 春のいく日に おとらざりけり」(「何も手につかず、ぼんやりとあらぬ方をながめて日を送っていると、これでは短い冬の日も春の幾日分にも劣らぬくらいに長く感じられるわけだ」野村精一訳)。この歌が野村の言う「時の空虚さへの焦燥感」を表現しているのかどうか、私にはよくわからない。
 和泉式部の「つれづれ」は、けっして充足されることのない存在の空虚と共振している言葉のように私には思われる。
 そんなことをぼんやりと考えていたら、ふと、二十二歳のカミーユ・クローデルがロダンに送った手紙の中の次の一文が思い浮かんだ(2013年8月5日の記事を参照されたし)。

« Il y a toujours quelque chose d’absent qui me tourmente. »

「いつも欠けている何かが私を苦しめています。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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