内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「荒涼に耐へて、一すぢ懐しいものを滲じますことができれば」― 原民喜の文体について

2020-04-24 17:44:24 | 読游摘録

 大江健三郎は、昨日の記事で触れた『夏の花・心願の国』の解説に、出典を明記せずに原民喜が自分の理想とする文体について述べた文章を引用している。出典は、「砂漠の花」と題された短いエッセイ風の文章で1949年10月13日付の『報知新聞』に掲載されたのが初出である。全体で千字に満たないこの文章は、『青空文庫』に収録されている(ただ、同文庫での底本は「日本の原爆文学1」ほるぷ出版 1983(昭和58)年8月1日初版第一刷発行である)。とても味わい深い文章だと思う。全文を引用しよう。

 堀辰雄氏から「牧歌」といふ署名入りの美しい本を送つて頂いた。私は堀さんを遠くから敬愛するばかりで、まだ一度もお目にかかつたことはないのだが、これは荒涼としたなかに咲いてゐる花のやうにおもはれた。この小作品集を読んでゐると、ふと文体について私は考へさせられた。
 明るく静かに澄んで懐しい文体、少しは甘えてゐるやうでありながら、きびしく深いものを湛へてゐる文体、夢のやうに美しいが現実のやうにたしかな文体……私はこんな文体に憧れてゐる。だが結局、文体はそれをつくりだす心の反映でしかないのだらう。
 私には四、五人の読者があればいゝと考えてゐる。だが、はたして私自身は私の読者なのだらうか、さう思ひながら、以前書いた作品を読み返してみた。心をこめて書いたものはやはり自分を感動させることができるやうだつた。私は自分で自分に感動できる人間になりたい。リルケは最後の「悲歌」を書上げたときかう云つてゐる。
「私はかくてこの物のために生き抜いて来たのです、すべてに堪へて。すべてに。そして必要だつたのは、これだつたのです。ただしこれだけだつたのです。でも、もうそれはあるのです。あるのですアーメン」
 かういふことがいへる日が来たら、どんなにいいだらうか。私も……。
 私は私の書きたいものだけ書き上げたら早くあの世に行きたい。と、こんなことを友人に話したところ、奥野信太郎さんから電話がかかつて来た。
「死んではいけませんよ、死んでは。元気を出しなさい」
 私が自殺でもするのかと気づかはれたのだが、私についてそんなに心配して頂けたのはうれしかつた。
「私はまるでどことも知れぬ所へゆく為に、無限の孤独のなかを横切つてゐる様な気がします。私自身が沙漠であり、同時に旅人であり、駱駝なのです 」と、作品を書くことのほかに何も人生から期待してゐないフローベールの手紙は私の心を鞭打つ。
 昔から、逞しい作家や偉い作家なら、ありあまるほどゐるやうだ。だが、私にとつて、心惹かれる懐しい作家はだんだん少くなつて行くやうだ。私が流転のなかで持ち歩いてゐる「マルテの手記」の余白に、近頃かう書き込んでおいた。昭和廿四年秋、私の途は既に決定されてゐるのではあるまいか。荒涼に耐へて、一すぢ懐しいものを滲じますことができれば何も望むところはなささうだ。

 大江健三郎が解説で引用しているのは、第二段落と最終段落である。特に第二段落に示された原民喜が憧れているという文体を自らの作品において見事に実現していることを大江は驚きとともに讃えている。確かに、原民喜の文体の素晴らしさをこれほど余すところなくとらえた表現はないのではないかと私も思う。
 このような文体はけっして技巧だけでは得られない。原自身が言うように、それは「心の反映」でもあるだろう。しかし、その心に何を書きたいと願うかが文体を決めるとも言えないだろうか。自らが到達したいと憧れる文体で書くに値することを書こうと一心に願い、そのことに命を捧げた作家であったからこそ到達できた文体であったと私は思う。
 上掲の文章に引用されているフローベールの書簡の一節は、1875年3月27日にジョルジュ・サンドに送った手紙の中の一節である。原文は « Il me semble que je traverse une solitude sans fin, pour aller je ne sais où. Et c’est moi qui suis tout à la fois le désert, le voyageur et le chameau. » となっている。
 原民喜を読んでいると、文体とは作家が背負った運命の刻印であると言いたくなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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