内的自己対話-川の畔のささめごと

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戦中日本におけるもう一つの近代の超克の試み(最終回)― 近代日本における主体概念の数奇な「運命」

2017-03-21 00:00:00 | 哲学

 連載「戦中日本におけるもう一つの近代の超克の試み」は、二十回目となる今日の記事が最終回です。連載の締め括りとして、言語過程説の中に見られる主体概念の数奇な「運命」について一言します。

 言語過程説におけるこれまで見てきたような「主体」概念は、奇しくも、西洋言語におけるその語源である古代ギリシア語「ヒュポケイメノン」の二重の語義を以下のような仕方で見事に反映している。言うまでもないことだが、時枝自身にはそのような意図は欠片もなかったことは明らかである。
 ヒュポケイメノンは、元々は「下に置かれたもの」という意味であり、それが「他のものの下支えとなるもの」と「他のものに従属させられたもの」という二つの位相に自己差異化する。これはアリストテレスの著作群の中で確認することができる。
 言語過程説における主体は、一方で、言語活動の一切を下支えするその根本的な存在条件であり、他方で、言語活動において置かれたその都度の場面の諸条件を受け入れ、それに従って表現活動を行う自発的従属存在である。つまり、言語過程説における主体のこの二重の位相は、それぞれヒュポケイメノンの二つの位相に対応しているのである。
 西洋哲学史において、ヒュポケイメノンは、この二重性を抱えたまま、ラテン語subjectum, そしてsubject, sujet, Subjektと英仏独語に訳され、古代から近代までを通底している哲学的根本概念の一つである。ところが、カント哲学において認識のSubjekt が、認識の中心とみなされるようになり、認識の下支えからその「主人」へと「転生」したとき、ヒュポケイメノン元来の「下に置かれたもの」という意味は、西洋哲学において抑圧され、深い忘却の中に沈んでいく(英仏語では、しかし、哲学以外の分野で、ギリシア語本来の語源的意味が命脈を保ち続ける)。
 カント以降の「近代的」主体の歴史がヒュポケイメノンの抑圧・隠蔽そして忘却の歴史であると言ってよいとすれば、言語過程説において時枝が主張する主体的立場は、その深い忘却の中に沈んでいたヒュポケイメノンの本義の想起・復権、そして二十世紀前半におけるその一つの展開の可能性の提示と見なすこともできるだろう。この意味で、言語過程説は、一つの近代の超克の試みであったと言うことができると私は考える。












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