今日の記事は、昨日までの連載という「舞台」を終えて戻ってきた「楽屋」での独り言です。
言語過程説における主体は、その自律的・独立的・個体的自存性への固執ゆえに、現実の生ける言語主体でありうるためは、あまりにも「孤独」な個体ではないだろうか。この主体もまた、共同体喪失という近代の宿痾に冒されており、その治療法を見いだせないまま、今も彷徨しているように私には思える。
無傷な傍観者として暢気にそう批評しているのではない。私もまた、そこに安住できるようなあらゆる共同体を決定的に失った、おそらく死ぬまで当て所なく彷徨うだけの個体に過ぎないのだから。
完全にはわかりあえないことから必然的に発生する他者に対する憎しみと怒りをそれとして相互に認め合う中間領域を共有することに同意し、いかなる同一性への帰属を相手に要求・強要することもない、互いに「不透明」で孤独であることを受け入れる個体間にしか、新しい「共同体」の形成の可能性はない、そう私は絶望的に確信している。
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