内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

無限なるものへの畏れと憧れ ― パスカルと西田(1)

2015-09-27 17:50:53 | 哲学

 « Disproportion de l’homme »(「人間の不釣合(い)」)という小見出しが付けられた断章(ラフュマ版199,ルゲルン版185,セリエ版230,ブランシュヴィック版72)は、「『パンセ』中最も長く、最も入念に仕上げられた断章 」(Pensées, édition de Michel Le Guern, Paris, Gallimard, « Folio classique », 1995, p. 561; « La Pléiade », 1999, p. 1386)であり、それについての注解・研究も汗牛充棟ただならぬものがある。
 この断章の中に、かの有名なメタファー « sphère infinie dont le centre est partout, la circonférence nulle part »(「中心がどこにもあり、円周がどこにもない無限の球体」(前田陽一訳)、「いたるところが中心であり、どこにも周囲のない無限の球体」(塩川徹也訳))が出て来る。
 このメタファー自体は、パスカルの発明にかかるものではない。それどころか、古代から長い歴史を持っており、紀元前五世紀の哲学者エンペドクレスまで遡るとされている。それ以来二千年を超える時を経て、十七世紀初頭には、哲学・宗教の分野において広く用いられ、宇宙の表象とされるようにもなった。ただ、多くの場合、それは神の表象の一つであった。
 ところが、パスカルは、このメタファーに新しい意味を与えた。この点について、Michel et Marie-Rose Le Guern, Les Pensées de Pascal, de l’anthropologie à la théologie, Larousse, coll. « thèmes et textes », 1972 に依拠して、その新しい意味が何であったかを見てみよう。
 宇宙全体、あるいは自然全体のメタファーとして「中心がどこにもあり、円周がどこにもない無限の球体」として使われたことは、パスカルには限られないし、この「中心」に人間が置かれている点も、パスカル以前にすでに用例がある。ところが、パスカル以前の伝統的な宇宙論では、この〈中心〉(« le centre »)の位置を占めるのは、まさに〈人間〉であったのに対して、パスカルにおいては、〈人間〉は、宇宙に無数にある中心の一つ(« l’un de ces centres infinis en nombre »)に過ぎず、そのいずれの中心も、円周から無限に遠いという点においてはまったく同等であり、たとえ〈人間〉も一つの中心であったとしても、それは他の中心に対してまったく優位性を有するものではないのである(voir Le Guern, op. cit., p. 155)。
 「無限の球体」のメタファーの直後にパスカルはこう書いている。

Enfin c’est le plus grand caractère sensible de la toute-puissance de Dieu que notre imagination se perde dans cette pensée.

すなわち、われわれの想像がその思考のなかに自分を見失ってしまうということこそ、神の万能について感知しうる最大のしるしである。(前田訳)

要するに、私たちの想像がこのような考えのうちに自分を見失うことこそ、神の全能の最も明らかなしるしだ。(塩川訳)

 ここでは訳の問題を論うのが主題ではないのだが、一言だけ訳について述べる。
 « sensible » は、やはり前田訳のように、「感知しうる」あるいは「感じられる」、つまり「感覚でわかる」という意味がはっきりわかるように訳すべきであると私は考える。塩川訳のように、単に「明らか」としてしまっては、何によって「明らか」なのかがわからない。
 この違いは、一見瑣末な訳語の選択の問題に見えるかもしれないが、そうではない。なぜなら、それは、パスカルの説得術についての一つの重要なポイントにかかわるからである。パスカルの論述は、ただ理性によって議論の筋道について読者を納得させるだけでなく、そこで問題になっている人間の限界と無力について、感覚的に実感させ、読者の心に動揺を引き起こし、宇宙におけるその本来の立場に謙虚に立ち戻らせることをその狙いとしている。この無限性のメタファーを通じて、読者の知性にではなく、その感性に訴え、読者のうちに眩暈・動揺・恐怖を引き起こすことによって、パスカルは、読者を「説得」しようとしているのである。
 このメタファーが引き起こす無限に対する恐怖は、おそらく、少なくともある時点までは、パスカル自身によって深く実感された感情であったと思われる。ところが、このメタファーを、パスカルに依拠するとその都度明言しながら、繰り返し、まったく違った意味で使った哲学者がいる。それが西田幾多郎である。
 明日の記事から、両哲学者に見られる宇宙の無限性に対する感性の違いを、西田がこよなく愛した海が象徴する無窮の動性をファクターとして導入することでより明確に規定した上で、そこから哲学の情感的基底という問題に立ち入り、私自身がかねてより構想中の「根源的受容性の哲学」の展開の一齣を提示する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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