内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

間奏曲 ― 医術の在り方、あるいは十七頭のラクダの話

2015-03-25 06:30:04 | 読游摘録

 先週から紹介を続けている Penser ce qui advient には、あと二章残っているが、今日は一休み。くたびれたからではなくて、昨日の記事の補遺として、紹介したい話が一つあるからだ。
 やはり昨日紹介した、ダスチュール先生とカベスタン氏の共著 Daseinsanalyse の結論部には、医術としての現存在分析は、現場において具体的にどのような態度となって現れるべきなのかというデリケートな問題に答えるために、その一つの出発点を提供してくれるであろうと、メダルト・ボスのIntroduction à la médecine psychosomatique (心身医学序説)に引用されている、アラブに古くから伝わる伝説がそっくりそのまま引用されている。それは次のような話である。

年老いた父親が、その死の床に三人の息子たちを呼び、彼の全財産を彼らに相続させる旨伝えた。その全財産とは、十七頭のラクダである。長男には、その半分、次男にはその三分の一、三男には九分の一、それぞれ相続させる。これだけ言うと、父親は息をひきとった。三人の息子たちは、どうしてよいかわからず、すっかし頭を抱えてしまった。そこで、一人の貧しい賢者に知恵を借りることにした。この賢者は、たった一頭のラクダしか所有していない。息子たちは、賢者を呼んで、自分たちが当面している、この見たところ解決不能な相続問題をなんとかするよう助けてほしいと頼んだ。息子たちの話を聴いた賢者が彼らに提案したのは、ただ、自分が所有していた一頭のラクダを、彼らが相続するべき十七頭に付け加えることだった。ところが、それによって、たちどころに難問が解けた。三人の息子たちは、父親の遺言通り、それぞれの相続分を受け取ることができるようになったのである。つまり、長男が半分の九頭、次男が三分の一の六頭、三男が九分の一の二頭を受け取ったのである。しかし、それらを足しても十七頭にしかならないではないか。当然のこととして、十八番目のラクダは、つまり賢者の一頭はその中には数えられていない。もう必要ないからだ。たとえ、それが一時必要だったとしても。

 この話には、様々な解釈が可能な要素が複数含まれてはいる。残された三人の息子たちの困惑、相続分の不均等性、父の遺言の忠実な実行、賢者の貧困など。しかし、メダルト・ボスは、この賢者の振る舞い方を特に強調したかったのである。というのは、医術の精髄はこのようなものだと彼は考えるからだ。つまり、話の中の賢者のように、分別を持って適切に、必要なときに必要な場所に介入し、用が済めば、そこから姿を消す、それこそが医術なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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