内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「ともに悲嘆を生きる」ということ

2023-12-18 09:12:15 | 読游摘録

 家族や身近な人や大切な人を失ったとき、悲嘆に暮れるのはいつの時代でも当然のことだったはずなのに、そして悲嘆に暮れる人たちにどう接すればよいのか、身近な人たちはちゃんと心得ていたはずなのに、近年「グリーフケア」という英語由来のカタカナ言葉をよく目にするようになったのは、悲嘆するとはどういうことなのか、悲嘆に暮れる人たちにどう接すればよいのか、現代の私たちがわからなくなってしまっていることを意味しているのだろうか。
 昨日の記事で取り上げた島薗進氏の『ともに悲嘆を生きる』第4章に次のような一節がある。

 悲しみそのものはけっして害悪ではなく、病気でもない。むしろ成長の糧とさえいえる。悲嘆の文化に注目した人々の論では、そのことが前提となっている。[…]彼らはいずれも現代社会が、「喪の仕事」を適切に行う文化装置を失っているのではないかと考えた。人類文化という観点からすれば、悲嘆には積極的な意義があると捉えるのが自然である。それが失われてきたために、新たに意図的に「グリーフケア」というような営みを立ち上げる必要が生じている。[…]
 […]悲嘆はできれば経験せずにすむ方がよいものではなく、人間が経験する定めにあるものであり、悲嘆を通して得られる経験の次元もある。今では、悲嘆は生きて行く上で大きな力になるという合意がある。(106頁)

 ただ、同書でも言及されている2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件や2011年3月11日の東日本大震災及び福島第一原発事故のような未曾有の事態が発生したとき、多数の人々に同時に引き起こされた深い悲嘆にどのように対処すべきか、新たに問われたことは確かだ。それらの事件、災害、事故は、個々の人たちの悲嘆というレベルだけでは対処・解決できない、より深刻な社会問題であったし、今もあり続けている。
 しかし、二十世紀以降の日本に話を限っても、多数の人の命が同時に失われるという経験を、関東大震災、東京大空襲、広島と長崎の原爆の経験、もっと最近では阪神淡路大震災などによって私たちは持っている。それらの深い悲嘆の経験から私たちは何を学んだのだろうか。
 「戦争による悲嘆を分かち合う困難」については、『ともに悲嘆を生きる』第7章で詳しく取り上げられているから、後日その章を取り上げるときに立ち戻ることにしよう。
 大災害による多数の死者の発生は今後も常に起こりうるのだから、そのときに備えて「グリーフケア」を学んでおくことは私たちの義務だと言っては言い過ぎだろうか。
 他方で、修復不能なまでに破壊された地球環境のことも私は思う。多くの生き物たちの命が人間によって奪われたし、奪われつつある。これはグリーフケアとは違った意味で現代世界の深刻な問題である。それこそ悲嘆に暮れている場合ではなく、一刻の猶予もなく、現状を変えていく行動を起こさなければ、それこそ決定的に取り返しのつかない事態が間近に迫っている。
 だが、現代社会でのグリーフケアの必要性と現在の地球環境の危機の深刻度とは、現代社会の病巣の深いところで繋がっているように私には思われる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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