内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「白い花はそこにある。だがすでにほとんど破壊されている。」― シモーヌ・ヴェイユ『ロンドン論集とさいごの手紙』より

2024-08-29 05:04:25 | 読游摘録

 「スミマセン」って、あやまる必要はないのかもしれませんが、今日はとても自分の文章を綴れる精神状態にありません。最近、なんか、ほんと、かなり精神状態が不安定なことが多くて、外界のこれでもかと言わんばかりの澄みきった青空とは裏腹の予測不可能な天気のごとき自分の心模様をしぶしぶ観察するのがやっとで、それ以上のことはなにもできなくて、それだけでもしんどくて、だから、今日の記事は、以前に下線を引いておいた文章をただ貼り付けるだけです。皆様、ごきげんよう。

 Il y a dans la pauvreté une poésie dont il n’y a aucun autre équivalent. C’est la poésie qui émane de la chair misérable vue dans la vérité de sa misère. Le spectacle des fleurs de cerisier, au printemps, n’irait pas droit au cœur comme il fait si leur fragilité n’était tellement sensible. En général une condition de l’extrême beauté est d’être presque absente, ou par la distance, ou par la faiblesse. Les astres sont immuables, mais très lointains ; les fleurs blanches sont là, mais déjà presque détruites. De la même manière l’homme ne peut aimer Dieu d’un amour pur que s’il le conçoit comme étant hors du monde, dans les cieux ; ou bien présent sur terre à la manière des hommes, mais faible, humilié et tué ; ou encore, ce qui est un degré d’absence encore plus grand, présent comme un minuscule morceau de matière destiné à être mangé.

Simone Weil, Œuvres complètes, Gallimard, tome V – 2, 2013, p. 384.

 貧しさには、他にいかなる等価物もない詩がある。それは、肉体の悲惨さという真実のうちに見られる悲惨な肉体から発せられる詩である。春、桜の花の光景は、もしその儚さがあれほど感じられるのでなければ、これほど胸を打つことはないであろう。概して、極限の美の条件は、距離によるのであれ、弱さによるのであれ、ほとんど不在であるということだ。星々は不変である。だがとても遠くにある。白い花はそこにある。だがすでにほとんど破壊されている。同様に、人間が純粋な愛をもって神を愛しうるのは、この世界の外に、天のうちにいますものとして神を思い描く場合にかぎられる。あるいはまた、この地上で、弱く、辱められ、殺されてしまう人間として、あるいはさらに、いっそう大きな不在である、食べられてしまう宿命にある物質の微小な塊として、神を思い描く場合にかぎられる。

                    (今村純子訳『シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー』河出文庫、12‐13頁)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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