今学期修士の演習で『ケアとは何か』を読みはじめるずっと前から、いや、そもそもケアについて考えはじめるずっと前から、苦しみ(souffrance)と痛み(douleur)との区別と関係については何度も考えてきた。にもかかわらず、いまだ問題の核心に迫ることができずにその周囲をうろついているだけという歯がゆさを感じ続けている。
その歯がゆさは、自分の知識や経験の不足が原因であるというよりも、苦しみも痛みも我が身のこととしてよく知っているはずなのに、それについて考えようとすると何か大切なものが思考の網の目をすり抜けてしまうという捉えどころのなさに起因している。
それはお前の頭が悪いからに過ぎないと言われれば、それはそうかも知れないが、それでも考えずに済ませることができないのだから、とにかく向き合い続けなくてはならないとだけは今も思っている。
以下、錯綜するきれぎれの断想である。
痛み止めの薬や注射はあるが、苦しみ止めの薬や注射という言い方は普通しない。しかし、これは両者の決定的な違いにはならない。苦しんでいる精神状態を薬物投与によって一時的に緩和あるいは消失させることはできるからだ。どちらの場合も、本来体内には存在しない物質を外部から投入する対症療法であって原因治療ではない点も共通している。
自分の最期をどう迎えたいかという問いに対して、「あまり苦しまずに逝きたい」といった表現がよく使われる。これは実のところどういうことを意味しているのだろう。痛みに七転八倒あるいは夜も眠れなかったり、鎮痛剤のせいで痛みは緩和できても意識が朦朧となったり、延命措置のために何本ものチューブで医療機器に繋がれて身動きもままならなくなったり、死を前にしての恐怖に慄いたり、そういうことなしに穏やかに死を迎えたいということだろうか。
では、生まれてからずっと病気らしい病気もせずにある夜を迎え、就寝中に突然心臓発作が起こり、苦しむこともなくそのまま逝ってしまうのが理想的な死なのだろうか。
確かに、避けることができるなら、痛みも苦しみもないほうがいいのかも知れない。それだけ人生をより楽しむことができるのだから。
実際にはなんの痛みも苦しみも経験することのない人生というものはありえないとしても、だからといって、あったほうがよいという結論は直ちには導けない。
痛みも苦しみも自分で経験しなければ、人の痛みも苦しみもわからないとしても、それらの経験があるからといって人のそれらがわかるとは限らない。前者は後者の必要条件ではありえても、十分条件ではありえない。
苦しみのない痛みはある。例えば、人を助けるために足を骨折したというような、いわば名誉の負傷で、かつ後遺症もなく完治が保証されていれば、完治までに患部に痛みを感ずることはあっても、そのことに苦しむことはないだろう。
痛みのない苦しみはあるだろうか。怪我・病気等に起因する身体的苦痛は自分にまったくなくとも、言葉で人を傷つけてしまったことに苦しむことはある。しかし、そのような苦しみは「心の痛み」とも表現されることがあるから、やはり体のどこかに痛みを感じてもいるのではないか。
痛みを感じうるということは生命維持のためにも必要だ。直ぐに手当しなければ死に至る怪我をしても放置すれば死に至る病になってもまったく痛みを感じなければ、手遅れになってしまう。
苦しむことそれ自体は悪いことなのだろうか。避けるべき「悪」なのだろうか。すすんで苦しもうとすることにはなにか倒錯的なものがあるとしても、苦しみうる(passible)存在であることは人間にとって不幸なことなのだろうか。