「居場所」の重要性が村上靖彦氏のケアを論じた複数の著作のなかで繰り返し説かれていることは先月何度かこのブログで話題にした。5月には、「ネガティブ・ケイパビリティ」のことを数回話題にした。この両者がその言葉自体は現れてはいないが実質的に重なり合っている看護実践の場面を捉えている一節を、先月話題にした西村ユミ著『看護実践の語り 言葉にならない営みを言葉にする』(新曜社、2016年)のなかに見つけた。
たとえばCさんは、突然、赤土さんを喪ったことにより、そのこと自体と自分の赤土さんへのかかわり方、もっとできたかもしれない何かを問うようになり、答えることのできない問いとして赤土さんが求めていた「生きる意味を見つける」ことを繰り返し言葉にしていた。このような出口の見えない問いの反復が、Cさんに「ずっと」引っかかりを感じ続けさせていたといえる。しかし、それだけではない。この自己に閉ざされているようにも聞こえる語りと同じ文脈で、いま目の前に居る患者にかかわりながら、Cさんは自らに「ちゃんと話とか聴けてるのか」「この患者さんと一緒に今この場所に居れているのか」と問いかけているというのだ。つまりCさんは、過去の経験に端を発する問いにすぐさま答えを見出すのではなく、現在かかわっている患者への関与のうちで自らの実践を問い続けているのである。その現在の営みが「ずっと」という感覚を生み出し、赤土さんとの経験に促された「すぐ答えを出しちゃいけない」と言って踏みとどまろうとする意思が、この問いを未来にも開かれたものとする。赤土さんとの経験が、現在かかわっている患者、そして今後かかわり得る患者との関係の中で、更新されつつそのつどの実践も形づくっているのだ。(112頁)