内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

この難問に正確に答えることができれば世界の見え方が変わるであろう

2020-03-28 20:13:55 | 講義の余白から

 さて、昨日の課題の話の続きです。
 月曜日の学部三年生の日本語だけで行う授業で、思い切って哲学的な問題を出したのです。この問題は私の「十八番」の一つで、過去に二回日本語で講演していますし(その要旨は2015年1月6日の記事が初回で計八回の連載「自己認識の方法としての異文化理解」を参照してください)、この二月の日仏合同ゼミでも話題にしたところ、日本人学生たちに大変受けがよかった話です。
 その講演のために準備した日本語のパワーポイントを使いながら、日本語として彼らにとってかなり難度が高かったばかりでなく、哲学的にも相当に高度な説明をした上で、「「わかる」と「理解する」との違いはどこにあるでしょうか」という問いを宿題として課したのです。この難問に日本語で答えろという恐るべき課題です。
 単に自分の言語感覚に基づいて説明しろということではありませんし、辞書を調べても答えは見つかりません。というか、辞書の語釈からだけではこの両者の違いは見えてこないのです。両者の違いを論理的に説明することが求められているのです。
 どうしてこんな難問を出したかというと、この問いに明確に答えられるほどに両者の違いがしっかりと把握できるようになると、これは確信をもって言えますが、それ以前と世界の見え方が変わってくるからです。すくなくとも、今まで漠然と同じように見えていたものの間の違いがより明確に見えるようになるからです。
 課題を与えた後に、さすがにやりすぎたかなあ、「難しすぎます」って文句を言ってくる学生がいるかなあと案じていたのも事実です。しかし、その懸念はいい意味で裏切られました。すべての学生とは残念ながら言えませんが、多くの学生が、こんな危機的な状況にありながら、この問いと正面から向き合って、いい解答を書いてくれたのです。その中でも、日本人の学部学生だってここまでよく考え、正確かつ簡潔な日本語で表現できますかって言いたいくらい傑出した解答が先ほど届きました。
 すぐにもそのまま掲載したいところなのですが、いくら匿名にするとしても本人の許可を得てからにしたいので、もし許可が下りたら、明日掲載します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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