今日の記事は、昨日の記事の最後に引用した小池喜明氏の見解に対する若干の私見である。『葉隠 武士と「奉公」』の前後の文脈から離れてのなかば空想的な考察である。
君主もまた「志」の「異見」のネットワークに組み込まれているという氏の解釈が常朝の『葉隠』の本文そのものによって支持されうるとは俄には信じがたい。が、解釈としてとても興味深い。
なぜなら、その解釈に従えば、君主の臣下に対する絶対的超越性が「公」の名のもとに否定されることになるからである。君主もまた、「公」に仕える「公僕」であるかぎり、「奉公」の論理に統御された世界がそれとして機能するための「機関」に過ぎないということになる。君主はその奉公の世界の階級社会の頂点に位置するとしても、それはその階級社会の機能のために必要とされているからであり、君主であるという事実だけでその地位が十全に正当化されるわけではない。これは、封建階級社会における「君主機関説」と言ってもよいのではないか。
しかし、そう考えてしまうと、臣下の主君への絶対的忠誠は不可能にならないだろうか。主君もまたそれに従うべき奉公のシステムの維持が主君に勝る価値基準になるからである。これでは義合的忠誠論と同じではないか。
自分の主君が奉公のシステムの維持に反する振る舞いをするとき、それは諌めの対象となるはずである。自分が一般武士であり、主君に直接諫言する権利を持たないとしても、反公僕的な主君に対して、諫言権をもつ重役たちを動かして、間接的に諫言を試みることは、公僕として正しい行いである。
主君への絶対的忠誠とは、主君のいいなりになることではない。主君が主君に相応しくあるために、臣下としての自分は、「私」を捨て、場合によっては死を覚悟して、臣下としてなすべきことをあらゆる手段を尽くして為すのが絶対的忠誠である。
奉公という閉じたシステムの安定的維持が絶対基準であるかぎり、忠誠を尽くすということは、そのシステムの維持に反する君主に対しては、あらゆる手段を用いて諫言することであり、したがって、君主もまたシステムの一機関であるとすることと、その君主に対して絶対的忠誠を尽くすこととは矛盾しない。
しかし、閉じたシステムの維持だけが目的である場合、そしてそのシステムの外に対して無関心、あるいは盲目である場合、そのシステムは遅かれ早かれ崩壊するであろう。そうならないためにシステムが外への能動的な開放性をもつためにはどうすればよいのか。
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