内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「非自己」の多数化・細分化・差異化の「劇場」としての「自己」

2024-10-05 16:06:17 | 読游摘録

 昨日の記事で言及した『看護実践の語り』の急性 GVHD の記述箇所には注が付けられていて、その注には、ジャン‐リュック・ナンシー/西谷修(訳)『侵入者――いま、〈生命〉はどこに?』(以文社、2000年、28~29頁)からのかなり長い引用がある。その引用箇所で、心臓移植手術を受けたナンシーは移植後の拒絶反応とそれへの医学的対処ついての自身の見解を述べている。その「二重の外来性」についての記述自体はとても興味深い。しかし、『看護実践の語り』の本文に述べられている GVHD とは、移植されたものと移植を受けた生体との関係が真逆である。
 昨日の記事で見たように、GVHD の場合、移植された骨髄が移植を受けた生体を「よそ者」として攻撃するのに対して、ナンシーが語っている拒絶反応は、移植を受けた生体が移植された心臓という「よそ者」に対して仕掛ける攻撃である。後者の場合は、生体の免疫システムが「正常に」機能しているからこそ、「外敵」を「非自己」として排除しようとするのである。
 この場合、生体の免疫システムをそのまま「正常に」働かせておくわけにはいかない。過度に強い拒絶反応は患者である生体を直ちに生命の危険に曝すからである。そこで医学が介入し、患者が移植された心臓という「よそ者」に我慢できるように患者の免疫力を低下させる。
 この措置は「患者を自分自身のよそ者にする。つまり、患者の生理学的署名とも言えるようなその免疫的アイデンティに対するよそ者にするのだ」。かくして患者は、生命個体としての生理学的レベルでの自己同一性を部分的に放棄し、自分自身のよそ者にならなければ生き延びることができない。
 生命個体の免疫システムの自律性を一時的にであれ人工的に低下させることで「非自己」を受け入れることが一度できれば、「自己」と「非自己」との調和的な「共生」あるいは前者の後者への安定的な「依存」関係が形成され、それで問題解決というわけにはいかない。「自分にとってのよそ者となっても、それでわたしが侵入者に近しくなるわけではない」。「ひとつの侵入が生じるや、それはたちまち多数化し、内部で細分化し差異化されてゆくもののうちに自分を認めることになる」。
 このような「自己」は、己の内部が「非自己」の多数化・細分化・差異化の「劇場」であることを受け入れるかぎりにおいて生き延びることができる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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