内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

古典和歌をローマ字表記することについて

2022-07-14 23:59:59 | 日本語について

 今日の話題も日本語の表記についてです。
 Les Belles Lettres 社から先月刊行された『古今和歌集』の仏訳 Kokin waka shû. Recueil de poèmes japonais d’hier et d’aujourd’hui, traduit par Michel Vieillard-Baron を購入して、各歌の仏訳の左側に添えられたローマ字表記の原歌を眺めながら、それらローマ字表記と通常の漢字仮名交じり表記との間の「距離」について考えてみました。
 『古今和歌集』にかぎらず、私たちが勅撰和歌集その他の古典的な和歌を鑑賞するときは、漢字仮名交じり表記が普通ですが、これもそれぞれの歌が生まれたときの表記そのままとはかぎらず、読みやすさを考慮して、底本では平仮名のところが漢字になっていたり、その逆の場合もあります。ですから、校注本や注釈書の表記を歌本来の表記として絶対化することはできません。
 それはそうとして、日本人が和歌を鑑賞するに際して、わざわざローマ字表記を介することはまずありません。学習用の古語辞典で読み方を示す場合にも、現代の平仮名表記が用いられ、ローマ字で発音を示すことはありません。
 上掲の仏訳には、歌ばかりでなく、脚注も含めて、日本語の漢字仮名の表記は一切なく、すべてローマ字表記になっています。フランスを代表する古典和歌文学の専門家による訳業である本書がフランスにおける和歌文学研究のきわめて高度な達成であることは間違いありません。ですが、ローマ字表記された和歌は一体誰のためなのだろうと私は考えてしまったのです。とはいえ、この疑問はけっしてこの偉業に対する批判ではなく、それをきっかけとした日本語表記をめぐる小考の一つにすぎません。
 同業者つまり日本の古典の原文を自分で読める研究者たちには、このローマ字表記は必要ありません。研究者でなくても、歴史的仮名遣いを身につけていれば、日本語の校注本や注釈書を参照すればよいわけです。このローマ字表記を頼りに読まざるを得ないのは、現代日本語は学習したが、歴史的仮名遣いとその発音の仕方は習っていない人たちか、日本語をよく知らない人たちです。
 いずれの場合も、歴史的仮名遣いを忠実に反映したローマ字表記によっては正しく発音できないおそれがあります。例えば、「見む」は「ミム」とは読まず「ミン」と読みますが、ローマ字表記は mimu となっており、歴史的仮名遣いの知識がなければ、読み誤ってしまうでしょう。「けふ」はもちろん「キョウ」と読みますが、kefu という表記からどうやってこの読みが推測できるでしょうか。これらのローマ字表記から正しく読める人はそれを必要とはしておらず、ローマ字表記を必要とする人は正しく読めていないことがしばしばありうるわけです。
 私自身は、正直なところ、ローマ字表記に強い違和感を覚えますが、通常の漢字仮名交じり表記が表すそれぞれの言葉の姿態がローマ字によって消去され、歌の表記が日本語と無縁な表音文字によって斉一化されることで、歌の言葉が生み出す音楽性がいわば剥き出しになっているとは言えるかも知れません。
 皆さんはどうお感じになるでしょうか。一例だけ挙げておきます。巻第一・春歌上・ニ、貫之の歌です。

袖ひちて   Sode hichite      L’eau que j’avais puisée
むすびし水の Musubishi midzu no  Mouillant les manches dans l’onde
こほれるを  Kohoreru wo     Glace est devenue :
春立つけふの Haru tatsu kefu no  En ce premier jour de printemps
風やとくらむ Kaze ya tokuramu   La brise la fait-elle fondre ?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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