内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

痛みに対する四つの否定的態度:消沈・憤激・分離・迎合(二) ― 受苦の現象学序説(15)

2019-05-26 02:30:19 | 哲学

 痛みに対する第二の否定的態度は、昨日の記事で使った言葉をそのまま使えば、反抗なのであるが、以下の内容を見ればわかるように、「反抗」より「憤激」(激しい怒り)のほうが適切だと気づいたので、そのように訂正する。昨日の記事のタイトルも本文も同様に訂正する。
 一見すると、憤激は、第一の態度消沈の反対であるように見える。これもまた否定的な態度だとラヴェルがみなす論拠を見ていこう。
 私は、痛みの中に私の意に反して入り込んできた余所者を感じる。その余所者が勝手に私の意識をすっかり占領し、支配し、意志を無力化し、私の心を荒しまわり、私をめちゃくちゃにする。このとき、苦しむことは、痛みに対して私の内部で立ち上がった抗議にほかならない。苦しむこと、それは自分が苦しまなければならないことへの異議申し立てにほかならない。痛みを自分から叩き出そうとする。痛みを引き起こす原因を抹消しようとする。
 憤激は、限度を知らない。痛みに対して異議申し立てをすることにとどまらず、生命に対しても世界の秩序に対しても異議申し立てを行うまで突き進んでしまう。ほんの僅かな痛みがあるだけで、それを可能にした世界を弾劾するのに十分だと思い込んでしまう。
 痛みは、私のもてる力をすべて痛みに対して差し向けさせる。しかし、私は、結局、痛みを我がものとし、支配下に置くことには成功しない。痛みに対しての怒りに駆られた人間は、痛みに対していかなる判断も下そうとしない。痛みの中に何か理解しうるものがないかどうか、探そうとしない。痛みは、それを通じてしか手に入れることのできない良きものの条件なのではないかと問うてみようとはしない。
 痛みに対する憤激は、私たちの無力を顕にするだけだ。憤激は、痛みから何か良きものを引き出そうという試みを不可能にしてしまう。そこでは痛みも消えるであろう新しい世界を立ち上げることを不可能にしてしまう。憤激は、ただ破壊しようとするだけだ。痛みそのものに対しては為す術もなく、それを引き起こす原因に対して戦うのではなく、その痛みに場所を与えた現実、その痛みを内に含んでいる世界そのものを否定しようとする。果ては、痛みに苦しむ自分まで否定しようとする。
 痛みそのものが悪なのではない。痛みの中に何か意味を探そうともせず、自らをより大きく強くするために乗り越えなくてはならない試練を痛みのうちに見出そうともせず、痛みを口実として生命に歯向かい、無を存在へと昇華させようとするかわりに、存在を無へと投げやること、それが悪なのだ。












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