内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

世阿弥『遊楽習道風見』における「器用」と「器物」の意味論的差異について(上)

2020-06-28 21:47:13 | 読游摘録

 昨日の発表を聴いてくださった日本仏教研究の碩学フレデリック・ジラール先生から、今朝、拙発表についてのかなり長いご感想を頂戴した。発表内容に直接関わる部分(過分のお言葉だった)よりも、お耳汚しの拙論を聴いて先生がお考えになったこと、現在進行中のご自身の翻訳の話、お流れになってしまった八月末の日本思想の翻訳セミナーのこと(私もお手伝いすることになっていた)などの方が長かった。そちらの方に大変示唆に富んだご見解が示されていた。
 無から有が生まれるという発想は東洋では珍しくはないという話の流れの中で、最近お訳しなったという世阿弥の『遊楽習道風見』が引用されていた。その翻訳の定本とされた岩波の日本思想大系版『世阿弥 禅竹』が手元にあったので早速当該箇所に当たってみた。全体でも六頁弱の短い能楽論である。その終わりの方に「有無二道」論が出てくる。

 有無二道にとらば、有は見、無は器なり。有をあらはす物は無也。縦ば、水晶は、清浄体にて、色文無縁の空体なれ共、火生・水生を為せり。火・水の別性を無色の空体より生ずる事、是いづれの縁生ぞや。或歌に、「桜木はくだきて見れば花もなし花こそ春の空に咲きけれ」と云へり。遊楽万曲の花種をなすは、一身感力の心根也。只、水晶の空体より火・水をなし、桜木の無色正より花実を生る如く、意中の景より曲色の見風をなさん堪能の達人、是、器物なるべし。

 小西甚一訳(『世阿弥能楽論集』たちばな出版 二〇〇四年)は次の通り。

 仏教の方で説かれる「有」と「無」にあてはめると、有は見にあたり、無は器にあたる。有を顕現させる本源は無である。たとえば、水晶は、ごくきれいで、色も模様もない透明な物質であるが、それから火を生じ水を生ずるようなものである。火と水というまったく別な性質のものを、同じ無色の透明物質から生ずるというのは、いったいどんな原因結果なのであろうか。ある歌に、「桜木はくだきて見れば花もなし花こそ春の空に咲きけれ」とある。芸能において、さまざまな芸の花を咲かせる種となるものは、演者の身心にひそむ芸の「ちから」である。水晶という透明物質から火・水を生じ、桜木の色もないところから美しい花や実を生ずるように、演者の心に在る表現的意象を、多彩な表現をもつ演技にまで生かしてゆく達人は、まさしく器物というべきであろう。

 確かに、無から有が生じるという発想は東洋では珍しくない。世阿弥のこの一節はその例証の一つに過ぎない。私がこの一節で惹きつけられた言葉は、「無」よりもむしろ引用の最後に出てくる「器物」という言葉である。引用した一節の直前の箇所に、「器物」とともに「器用」という言葉が出てくる。両者の実質的差異について、大系本の補注を担当した表章は懐疑的だし、小西甚一訳も両者を明確に区別しているとはいいがたい。ルネ・シフェールの仏訳でも、どちらも « capable » と訳されている。
 しかし、6月20日の記事「霊魂における能力と受容性の対立について ― アビラのテレサ『霊魂の城』にふれて」で話題にした、« capable » という言葉の二つの意味が「器用」と「器物」の意味論的差異を明らかにする手がかりになるのではないかと気づいた。
 この点について、明日の記事で考察する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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