内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

青空から虚空へ ― 西から東への哲学的架橋の試み(15・最終回) 空の空なる虚空

2018-04-08 13:12:54 | 哲学

 今日の記事では、かなり、いや、とても乱暴な仕方ではあるが、昨日の記事で見た中世和歌の世界から、近世と近代を飛び越えて、いきなり戦後の宗教哲学にまで話が飛ぶ。唐突なのはわかっているが、この話をもって、今回の連載「青空から虚空へ ― 西から東への哲学的架橋の試み」をひとまず終了する。
 西谷啓治『宗教とは何か ―― 宗教論集一』(創文社、1961年)の第三論文「虚空と空」の初出は、1954年から1955年にかけて刊行された『現代宗教講座』第四巻である。この論文に次のような段落がある。『宗教とは何か』全体の中でも、最も美しい文章の一つだと私は思う。少し長いが、段落全体を引用する。

 それ故、虚無の深淵といはれるものも、實は空のうちに於てのみ成り立つ。それがさういふ深淵として表象されるといふこと自身も、空の上に於てのみ可能である。その意味では、虚無が存在するものにとつて一つの深淵であるやうに、空はその虚無の深淵にとつても一つの深淵であるといへる。例へば底知れぬ深い谷も實は際涯なき天空のうちにあるとも言へるが、それと同様に虚無も空のうちにある。但しその場合天空といふのは、單に谷の上に遠く擴がつてゐるものとしてではなく、地球も我々も無數の星もそのうちにあり、そのうちで動いてゐるところとしてである。それは我々の立つ足元にもあり、谷底の更に底にもある。もし遍在する神のいますところが天國であるならば、天國はそこなき地獄の更に底にもある筈であらう。そして天國は地獄にとつて一つの深淵であるであらう。同様な意味で、空は虚無の深淵にとつて一つの深淵である。然も同時にそれは、我々の自我とか主體とかいはれるものよりも一層此岸に開かれるもの、一層直接なるものである。ただ、あたかも我々が、上に言つたやうな意味での天空のうちに動いてゐながら、普段はそのことを忘れて、ただ頭上にのみそれを眺めてゐると同様に、我々自身の一層此岸にありながら、そのことを自覺しないのである。(『西谷啓治著作集』第十巻(創文社、1987年、110-111頁)

 この段落の冒頭にある「それ故」は、直前の段落の最後の一文を直接には受けている。無が何らかの仕方でまだ表象されるとすれば、つまり、「無なるものとして立てられるといふところが殘つてゐるとすれば、空といふ立場は、さういふ主體的な虚無の立場をも超えた。然もそれの一層此岸へ超えた立場として、絶對的に對象化され得ない立場なのである」(上掲書、110頁)。
 引用文中の「もし遍在する神のいますところが天國であるならば、天國はそこなき地獄の更に底にもある筈であらう」という一文は、アウグスティヌス『告白』第一巻第二章の一節「まことに、私はまだ黄泉の国にはいるわけではない。ところがあなたは、そこにもいられます。黄泉の国にくだっていっても、あなたはそこにまします。」(山田晶訳)を私に想起させずにはおかない。この『告白』の一節は、『旧約聖書』「詩篇」第一三九(一三八)篇第八節「われ天にのぼるとも汝かしこに在し、われわが榻を陰府にまうくるとも視よなんぢ彼処にいます」に依拠している。
 同じく引用文中の「我々の自我とか主體とかいはれるものよりも一層此岸に開かれるもの、一層直接なるものである」もまた、『告白』第三巻第六章の有名な一節「しかし、あなたは、私のもっとも内なるところよりもっと内にましまし、私のもっとも高きところよりもっと高きにいられました」(山田晶訳)を私に想起させる。
 その上でのことだが、「あなた」と呼び掛けられる人格神とそう呼び掛ける「私」との間には、還元不可能な不可同性があると考えざるをえない。それを飛び越えて、神との合一を主張すれば、それは神秘主義である。
 かたや、まったく人格性を有たない空に対して私たちはいかなる呼び掛けもできない。それとの合一もありえない。ただ、絶対的に対象化されえないどこまでも虚なる空において、私は私であるほかはない。この原事実には微塵の情意性もない。












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