木曜日の古典文学の講義で芭蕉の紀行文を紹介したとき、『野ざらし紀行』の富士川のくだりを引用した。
富士川のほとりを行くに、三つばかりなる捨子の哀れげに泣く有り。この川の早瀬にかけて、浮世の波をしのぐにたえず、露ばかりの命待つ間と捨て置きけむ。小萩がもとの秋の風、今宵や散るらむ、明日や萎れんと、袂より喰物投げて通るに、
猿を聞く人捨子に秋の風いかに
いかにぞや汝。父に悪まれたるか、母に疎まれたるか。父は汝を悪むにあらじ、母は汝を疎むにあらじ。ただこれ天にして、汝が性の拙きを泣け。
このくだりは、これまで諸家によってさまざまに論じられてきた。今、虚構性の問題に限って、手元にある三つの注解から、当該箇所を摘録しておく。今日のところは、廣末保『芭蕉 俳諧の精神と方法』(平凡社ライブラリー、1993年、当該の文章の初出は1967年)から。
廣末は、本書で約十頁を割いてこのくだりについて立ち入って論じている。緊張感を孕んだ鋭利なその考察は、その全文を読むべきなのは言うまでもないが、ここではその終わりの方からその一部を引くにとどめる。
「汝が性のつたなさをなげけ」ということばは、捨子に対してと同時に、芭蕉自身へのことばではなかったか。捨子と同様、芭蕉もまた肉親や実生活の秩序からはみだして、野ざらしの境涯を生きねばならない人間であった。芭蕉の捨子に対する異常な関心も偶然ではない。
それは、捨子に対すると同時に自分自身へのことばでもあったと、わたしはとりたい。少なくとも、そのような響きを言外にかさねたとき、「汝が性のつたなさをなげけ」ということばは、これにさきだつ文と句の緊張関係によく耐えることができるし、その結果、このくだりを独立した一篇の作品として破綻なく定着せしめることができる。(140頁)
廣末が富士川のくだりについて提示している読みは、同書の「序――芭蕉をどう読むか」に示された、主観主義でもなく客観主義でもない方法の実践の試みと捉えることができるが、その序で強調されている「歴史的なパースペクティヴにたとうとする主体的な努力」(12頁)という点で、今日の研究成果からすると、必ずしも十分ではないと言わざるをえないようである。
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