内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

海に閉じこめられた孤島は、海によって世界とつながってもいた ― 大平文一郎について

2018-08-22 23:59:59 | 読游摘録

 『狂うひと』を読んでいると、主人公である島尾ミホや島尾敏雄彼ら自身についての新資料や新たに明らかにされた事実などによってたびたび驚かされる。だが、それだけでなく、著者によって初めて詳しく紹介されたミホの親族についての伝記的叙述もとても興味深い。
 第二章「二人の父」では、ミホの養父と実父について詳述されている。養父・大平文一郎という人物に私は特に惹きつけられた。著者がミホにした最初のインタビューのとき、「ミホさんが子供のころ、お父さまは何をなさっていましたか」という質問に対して、ミホは笑って、「なーんにもしておりませんでした」と答えたという。ミホが覚えているのは、書院の表座敷に座って書をしたためたり、漢籍を読んでいる養父で、いわゆる仕事をしているところを見たことはなかったという。しかし、若い頃は、いろいろな事業に手を染めて、ことごとく失敗したという。
 大平文一郎は、明治元年、奄美大島の加計呂麻島生まれ。大平家は琉球士族を祖先に持つユカリッチュの一族である。幼少期には、墨摺り係を連れ、六人の若者が漕ぐ板付け舟で大島海峡を渡って学校に通ったという。
 その後、鹿児島、熊本、長崎で学び、京都に出て同志社大学の全身である同志社英学校に進む。卒業後は奄美大島の名瀬にあった島庁に勤務したが、二十五歳のとき母に乞われて加計呂麻島に戻った。その後は戸長や村長をつとめながら、さまざまな事業を試みた。ノルウェー人の砲手を雇って捕鯨会社を作ったこともあれば、鰹の加工会社を起こしたこともあった。樟脳を作るために楠を植林し、また島の豊富な森林資源を生かしてシベリア鉄道の枕木を輸出する事業を計画してロシアに渡りもした。しかしいずれも利益を上げるところまではいかず、最後に手がけたのが真珠の養殖だった。しかし、これもうまくゆかず、文一郎は、五十代の後半になるまでにほとんどの事業で挫折していた。
 およそこのような紹介の後、養父にまつわるいくつかのエピソードが詳細かつ生き生きと叙述されている。島尾敏雄も文一郎の人柄に強く惹かれていたことは、「私の中の日本人―大平文一郎」というエッセイを読むとよくわかる。後には、父文一郎と娘ミホとの関係を小説化しようと試みているが、これは連載二回にして中断され、未完に終わる。
 梯久美子は、文一郎が失敗を繰り返しながらなぜ次々に新しい事業に乗り出したのかという問いに対して、次のような仮説を提示している。

どの事業も、南東ならではの資源を生かして利益を生み出す可能性があるものである。[…]シベリアやノルウェーといった外国と取引をしようとしたのは、奄美を収奪してきた薩摩―鹿児島を経由せず、直接海外とつながるべきだと考えた結果だったのではないだろうか。(128頁)

 南島では国境を越えて人や物が行き来した。文一郎の膨大な漢籍は、半分は京都、もう半分は中国から直接買ったものだったという。海に閉じこめられた孤島は、海によって世界とつながってもいたのである。そうした中で、本土の人々とはまた違った国際感覚を文一郎は身につけていた。青年時代の文一郎が抱いていたのは、薩摩―鹿児島に抑圧され続けてきた故郷を、近代という新しい時代に向けて解き放つという夢だったのではないだろうか。結局は挫折し、「何もしない」老後を送ることになったのだが。

 本土ではほとんど誰も知らないような南の果ての離れ島に生まれた人物が、端倪すべからざる教養人であり、また、次々に手がけた事業がすべて失敗し、他人に騙されるようなことがあっても「いつもにこにこ笑って」いることのできる人格者であったことに私はとても深く印象づけられた。











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