内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

とても小さな違和感 ― ドナルド・キーン『続 百代の過客』を読んでいて

2023-06-22 10:16:30 | 読游摘録

 先日、二回、ドナルド・キーンの『百代の過客』『続 百代の過客』(『ドナルド・キーン著作集』第二巻・第三巻、新潮社、2012年)について書いた。
 その後、『続』のほうをあちらこちら読んでいて、自分の言ったことの間違いに気づいた。正岡子規の日記についての節が石川啄木についての節に次いで、同書中二番目に長いと書いたが、これは間違い。両者よりも長い節がその直前にあった。国木田独歩の日記についての節はちょうど三十頁で、これが同書中一番長い。子規や啄木の日記ほど関心を持てなかったので、さっと斜め読みしただけで、長さに気づかなかった。失礼いたしました。お詫びとともにここに訂正いたします。
 さて、この二冊の名著は英語で書かれ、キーン氏の信頼が篤い金関寿夫氏が訳している。英語原文を読んだわけではないから、原文にどこまで忠実なのかはわからないけれど、とても読みやすい訳だと思う。『続』の「訳者あとがき」で金関氏はどのように訳業が進められたか、このように記している。
 「こんども一年間、キーン氏の原稿を訳していって、たいへん楽しかった。キーン氏が次々と、かなりのスピードで書いていったものを、二週間分ぐらいかためて届けてもらい、それを新聞の期日に遅れないように訳していったのだ。私自身初めて読むものを、その日その日訳してゆくのだから、普通の読者同様、毎日次はどうなるのかと興味津々であった。それに当然当該する日記を熟読した上、参考文献などにも目を通すことが多かったから、ずいぶん勉強にもなった。したがってこの仕事でいちばん得をしたのは、おそらく私ではなかっただろうか。」(561頁)
 こんなふうに訳の仕事ができれば、確かに楽しいであろうし、大いに勉強になるであろう。
 金関氏は、キーン氏の英文について、こう記している。
 「キーン氏の英文は、十八世紀のイギリスの名文家の文章をもっと今風にしたような、簡潔、明晰な文章だし、それに不思議と日本語になりやすい。わざわざ私のために書いてくれたのかな、と思ってしまうぐらいなのだ。その点でも、ずいぶん私は得をしている。」(562頁)
 これは嘘偽りのない率直な感想だと思う。
 他方、『百代の過客』の「あとがき」にキーン氏はこう記している。
 「『百代の過客』が朝日新聞に連載れている時から、読者の一部から「何故日本語で書かないのか」という旨の手紙があった。正直言って、このようなご批判をありがたく思う。何故なら、外人は日本語を書けないと思うような人より、日本語で書くべきだと叱って下さる読者のほうが、私の学識を認めてくれているからである。」(431頁)
 確かに、キーン氏には日本語で書いた著作があり、その日本語は見事なものだ(正直に言いうと、若干違和感を覚える表現もあったが、それは瑕瑾に過ぎない)。
 他方、同じ「あとがき」の最後の段落で、英語で書いた理由を次のように説明している。「いつか朝日新聞に、英語で書いた理由について次の三つをあげた。第一は、学問的に深い内容を長期に連載するには、母国語の方が書きやすいこと。第二に、外国人ならではの視点を打ち出す目的があり、日本語で書くとどうしても日本的な表現や言い回しになって、英語で書いたときと微妙に違ってくること。第三は、金関寿夫氏という心強い翻訳者がいたことである。以上の見解は現在でも変わっていない。」(同頁)
 実にもっともな理由で、すっかり納得してしまう。
 ただ、『続』を読んでいて、ときどき、この表現、なんか変じゃないか、キーンさん、本当にこう言いたかったのかな、と腑に落ちないところがあった。そんなふうに感じるのは、一つには、ある語について、前後に用いられている表現とのスピーチレベルのずれを感じるときだった。こんな砕けた表現が実際英語原文でも使われているのか、ちょっと疑問に思える箇所があった。もう一つには、皮肉な意味ででもないかぎり、この文脈でこの言葉は来ないでしょうと思われる箇所があった。
 一例だけ挙げる。樋口一葉の日記についての節で、一葉のますます困窮する生活についてこういう一文がある。

一葉の家の経済状態は着々と悪化し、ついには家の中に一銭の金もなくなる。(319頁)

 「着々と」は、「目的の達成に向けて、順を追って一つ一つ確実にこなしていく様子」(『新明解国語辞典』第八版)について使われる。経済状態の悪化は目的ではないし、そこに向かって順を追って手を打つことではないであろう。それに、ここはアイロニカルな表現を弄するところでもない。「着々と」との代わりに、「ますます」や「避けがたく」などが来るべきところではないだろうか。英語原文ではどんな表現になっているのか、気になる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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