内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「自己」と「数」を超えた離接的思考 ― ジャン・リュック・ナンシーの対談から(承前)

2015-06-26 11:34:55 | 読游摘録

 昨日紹介したジャン・リュック・ナンシーの対談 La possibilité d’un monde を読んで考えたことを少し記しておく。
 近代文化の主要な部分が « auto »(「自己・自身・自動」を意味する。接頭辞としては、「自己が、自己を、自己に、自己で、自己の、自己から」等の多様な様態を含意する)という指標の下に構成されている、と言っても過言ではないだろう、とナンシー先生は言う(同書52頁)。
 例えば、仏和辞典で « auto » を接頭辞とする単語をいくつか例として挙げてみよう。 « autodéfense » (自衛。因みに、「自衛隊」のフランス語訳は « forces japonaises d’autodéfense »。ところが、「集団的自衛権」は、« le droit de légitime défense collective »、つまり「集団的正当防衛権」とでも訳すべきで、« auto » が含まれていないことに注意を促しておきたい)、 « autodétermination »(自己決定・民族自決)、« automate »(自動機械)、 « autonomie »(自律)、 « autorégulation »(自動調節)等々、多様な分野でいろいろに使用されている。
 〈存在〉〈行為〉〈思惟〉、これらの根拠を自己自身に置くこと、これが近代ヒューマニズムの根本的な定言命法であり、それが近代における人間存在の解放にその哲学的根拠として与って力があったことは忘れてはならない。しかし、この « auto » は、近代哲学の最も優れた次元においては、単なる「自足」(« auto-suffisant »)を意味するものではなかった。人間は自己自身を基礎づけるものではないし、自己完結するものでもない。人間は、「無限に人間を越えていく」(« passe infiniment l’homme »)。それは集団のレベルでも個人のレベルでもそうである。ところが、「共同体」(« communauté »)という観念には、「自足の上に自らを閉じる危険」(« le danger de se fermer sur une auto-suffisance » )がはっきりと含まれている(同頁)。
 現代社会で、この意味での自閉的な「自己」と相関的に機能しているのが、「数」である。〈外部〉〈他なるもの〉〈異なるもの〉への参照が欠落、あるいはそれらへの無関心が蔓延しており、超越的なものへの志向が決定的に切断され、「自己」自身を根拠とする社会では、その成員の「多数派」を自己参照することで自己を根拠づける。多数であることが自分たちを「正しい」ものとする。それは権力の側でもそれに抵抗・反対する側でも同じである。政府が、国民によって選ばれた代議士たちを「民意」の代表としてその多数の賛成を獲得することを自己正当化の根拠にするのと同じように、市民が「国民の声」を語るとき、それは自らが少なからぬ「数」であることを根拠とする。いずれの場合も、その「数」に自己同一化することが「力」になる。
 ナンシー先生は、現代世界において、「多数派」と「共同体」を超えて思考する必要性を訴える。つまり、自足・自閉することなく、「数」(数量化・数値化・統計・パーセンテージ等)を根拠とせずに思考するということだろう。〈多〉を、「離散」(« dispersion »)としてではなく、「離-置」(« dis-position » を仮にこう訳したが、この名詞が動詞 « disposer » の派生語であり、この動詞の語源的意味は « placer en séparant distinctement »(「判明に分けつつ位置づけること」)であることを念頭に置いてのことである)として考えることは私たちの義務だとも言われる。それと同時に、〈多〉を、「接続」(« connexion »)や「コミュニケーション」として考えること。そうすることが、「単一性」(« unité »)や「単なる多様性」(« pure multiplicité »)ではなく、「連合」(« union »)、「会議」(« réunion »)「集まり」(« assemblement »)をもたらす。
 ここまで、ナンシー先生の考えを、僭越かつ傲慢と恐れつつ、私なりの説明を織り込みながら、言い直してみた。以下は、先生の考えに刺激を受けた私の考えである。
 私は、上に見たような思考を、仮に、「離接的思考」(« pensée disjonctive »)と呼びたい。これがとても誤解を招きやすい表現であることは承知している。というのも、« disjonctif » は、 論理学では「選言的」に対応し、文法学では « conjonction disjonctive » は「離接接続詞」(ou, si, soit など)のことだからである。しかし、Le Grand Robert に、この後者の説明として、« qui unit les termes en séparant les idées » とあるところに注目したい。つまり、「種々の考えをそれぞれに区別しつつ、それらの構成要素を一つに繋ぐ」機能を引き受ける思考、一言で言えば、それらを「分け、繋ぐ」思考、それを「離接的思考」と名づけたいのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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