内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「われわれはだれしも酔っているべきだ」― 手塚富雄『いきいきと生きよ ゲーテに学ぶ』より

2022-08-26 22:54:36 | 読游摘録

 今日の記事は、手塚富雄『いきいきと生きよ ゲーテに学ぶ』(講談社現代新書 1968年)からのベタな引用のみです。ゲーテと手塚富雄に感謝しつつ、酒盃を傾けるだけの私ではありました。

われわれはだれしも酔っているべきだ。
若さは酒のない酔いなのだ。
年寄りが酒を飲んで若返るなら
それこそ霊妙至極な効験だ。
憂えなければならないことは日々の生活が憂えてくれる、
憂いをはらうのが葡萄の力

 さきほどのことばと共に、『西東詩集』の「酌人の巻」にある一編である。こせこせしたことを言わずに酒をたのしもうという大胆率直な発言である。ゲーテはここで東洋詩人の衣裳を借りており、まさに陶淵明や李太白や大伴旅人の同族になったのである。現実のゲーテも酒はいけるほうで、衣裳なしにでもこういう気持ちになることは多かったろう。
 愛酒家にはうれしくてたまらない詩だろうが、愛酒家でないものが読んでも、これらの詩句に含まれた生気と知恵には、陶然とした思いをさせられる。酔いは悪徳や愚劣とされることが多いが、一転して考えれば、何かに酔っていないような人間は、人間として存在価値がないと言えるだろう。事業に酔う人、学問に、芸術に酔う人、真理に酔う人。むろん、酒癖の悪い者もいるが、楽しむことを知っている者は、そんなに悪酔いはすまい。
 「若さは酒のない酔いなのだ」、たいへんなことばである。達観し、大観する詩人・賢人でなければこういうことは言えない。微笑する宥恕がそこにある。年寄りも一度は、そういうところを通ってきたのである。だが、若さのいやらしさというべきは、自分が酔っているのに、酔っていることにいっこう気がついていないことである。だから、このことばは若い連中には、奨励の意味にもなるが、酔いざましのはたらきもするだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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